荒野の用心棒
伊:Per un pugno di dollari
英:A Fistful of Dollars
1964年 伊=西ドイツ=スペイン/セルジオ・レオーネ監督作品
満足度★★★★★
★
もう何度も観ている映画だ。
今回もまた、何となく観始めたら面白くて最後まで観てしまった。
いや~ 面白いな~♪ ホントにオモロイ♪
公開当時は全く興味なかったのだが、
たまたま観た『続・荒野の用心棒』に感動し、後を追うように観た映画。
当時、この映画を観た人はみな度肝を抜かれた。
なぜかと言えば、『観たことがない西部劇』だったからである。
一言で言えば、すべてが新しかった!
私が子どもの頃は、『ララミー牧場』『ローハイド』『ボナンザ』という
アメリカ西部劇(TVドラマ)の全盛期だった。
子ども向けのオモチャにもガンベルトは定番だった。
当時の子どもは、チャンバラごっこやガンマンごっこに明け暮れた。
観ていた西部劇はアメリカ製の安定した『定番物』だったから、
西部劇というスタイルは頭の中で出来上がっていたのだ。
リアルタイムでこの映画を観た観客も同じだったろう。
ところが『荒野の用心棒』は、そんな観客の予想を覆したのである。
徹頭徹尾ニヒルな主人公。
悪党がメキシコの灼熱の太陽の下で暮す汗臭いひげ面の男たち。
そしてオープニングから聞いたこともない音楽が!
こういうスタイルを持った西部劇はアメリカにはなかった。
どこが制作したかと言えば、イタリアである。
あのスパゲティの国イタリア製の西部劇だった。
さらにこの作品には未だに汚名が付いて回る。
黒澤明の『用心棒』の無断リメイク作品、つまり『パクリ』だと。
実際パクリだが、制作会社がレオーネ監督に版権は大丈夫だとウソをつき
制作させたという経緯があるらしい。
レオーネ監督は許可が下りていると思って制作したので、
後に東宝から訴えられたとき激怒したというのだ。
東宝への賠償金のほとんどはレオーネ監督のギャラから支払われたため、
世界的な大ヒット作品でも監督の懐にはあまり入らなかったらしい。
だから、続編の『夕日のガンマン』は別の制作会社で作ったとか。
理由はどうあれ、東宝の許可を得ていなかったのは事実だから、
『荒野の用心棒』は『パクリ』と呼ばれても仕方ない。
そういう汚名が今でも付きまとうのである。
しかし、たとえパクリだとしても、私は言いたい!
よくぞパクった!と。
★★
今回改めて観て思うのは、これは別物である! という確信だ。
『用心棒」と似ているのは物語の筋だけで、他はどこも似ていない。
どれだけ似ていないかを確認しながら観たので、私は断言できる。
これは『用心棒』のパクリではない! 筋が似ているだけだと。
パクリと言うなら、むしろ『続・荒野の用心棒』が本作のパクリである。
まずオープニングからいきなり炸裂するモリコーネの音楽。
オリジナルのユーモラスな曲とは似ても似つかないではないか。
さらに、これは従来の西部劇の音楽ともちがう。
イタリア人の感覚で創作した西部劇音楽、つまりオリジナリティがある。
口笛とトランペットとエレキギターというこの組み合わせの妙が、
聞いたこともないユニークなメロディを創り出した。
何しろ相手は『世界のクロサワ映画音楽』である。
普通は緊張して、さらには敬意を表してしまうもの。
つまり、オリジナルの二番煎じになってしまうのがオチなのだ。
ところが、モリコーネの音楽は実に生き生きしている。
偉大な黒澤映画なんか眼中にないかのように!
実によく出来たB級映画音楽のノリが楽しい♪
ギリギリの安っぽさだが耳に残る、耳から離れない。
この映画が大ヒットした大きな要因はこの音楽なのだ。
B級臭をプンプンさせるオープニングがカッコイイ♪
音楽に続いて主役の登場。
素浪人が流れ者のガンマンに変更されているのだが、
この流れ者がやって来るのが西部の町ではなく、
メキシコの白壁の建物が建ち並ぶ国境の町だ。
ひげ面の主人公ジョーはポンチョを着ている。
ポンチョ。そう、あの中南米のメキシカンポンチョだ。
とにかく、このポンチョスタイルが主人公の造形を決定的にした。
また、主人公は馬ではなく、ラバに乗って来るのだ。
ラバ? オスのロバとメスの馬を交配させて作った交雑種。
そんなことはどうでもいい。
ラバに乗った流れ者のガンマン。新しい!
パッカポッコ、パッカポッコとだるそうにやって来る。
メキシコ国境の町なので暑いのだろう。
気怠そうな流れ者を演じるイーストウッドがいい!
井戸を見つけて水を飲むシーンがある。
実にうまそうに水を飲む。飲みながら町の様子をうかがう。
興味があるんだかないんだか、気怠そうに辺りをうかがうジョー。
この主人公の所作が何とも魅力的である。
レオーネ監督の相手が黒澤明なら、イーストウッドの相手は三船敏郎だ。
これも普通、どうやって三船の演技を超えようかと考えるだろう。
考えたんだろな、イーストウッドさんも。
で、どうなったかというと… これまた似ても似つかない。
三船さんに似ていないだけではなく、それまでのヒーローに似ていない。
こういう西部劇ヒーローは当時のスクリーン上に存在しなかった。
これはイーストウッドの演技力というより個性そのものだろう。
計算されたいやらしさがなく、にじみ出た自然さがある。
三船さんの桑畑三十郎より寡黙でクールだ。
このオープニングを観る限り、『用心棒』のパクリには観えない。
ただお話の展開が似ているだけだ。
(それを世間ではパクリと言う♪)
町に着いた主人公ジョーは、二組の一家が争っていることを知る。
ここは稼ぎ時と自らを用心棒として売り込む。
相手を挑発して、向こうから先に撃つよう仕向けるのだが、
この時のイーストウッドはまさにキャラハン刑事そのものだ。
イーストウッドはすでに、後のドル箱スターになる要素を持っていた。
そうとしか思えない凄みのある面構えと独特の喋り。
こういう喋り方をする流れ者もいなかったと思う。
挑発に乗った相手が銃を抜くより先に連射撃ちで瞬時に倒す。
このときのアングルのスタイリッシュなカッコよさ。
銃の連射撃ちというのは、この映画から始まったわけではないが、
この映画ほどカッコイイ連射撃ちもなかったろう。
全てが規格外で新しい。その新しさは今も色褪せない。
お話は『用心棒』だが、仕上がりは『荒野の用心棒』という別物である所以だ。
★★★
『荒野の用心棒』はB級作品だ。それは昔も今も変わらない。
『用心棒』を下地にしているとは言え、構成の緻密さでは数段劣る。
実際、イーストウッドが出ていないシーンはちょっと退屈だ。
脚本の緻密さとユーモアでは『用心棒』の方が完成度は高い。
にも拘らず、この作品が映画史に残ったのは、その新しさ故である。
この作品より前にもイタリア製西部劇は何本かあったらしいが、
『マカロニウエスタン』という新ジャンルは生み出せなかった。
黒澤映画から発想した作品でありながら、新しいスタイルを創造した。
単なるパクリ、二番煎じでは終わらなかったという事実。
その一点だけで、映画史に残るに値するのだ。
同じ黒澤映画『七人の侍』のリメイク『荒野の七人』は、
その後2作ほど続編が作られたが、どれも凡作である。
『荒野の七人』自体、私はそれほど面白いとは思わない。
マックイーンやコバーン、ブロンソン、それにロバート・ボーンなどの
後の人気スターを輩出したという点で捨て難い作品だと思うけど。
マックイーンが一人カッコよすぎて浮いてる感があるし、
ユル・ブリンナーは西部劇に向いてないし…
と、個人的にはあまりその価値を感じない。私の好みだが。
正統派の『荒野の七人』は優等生すぎて物足りないのだろうか。
それに比べ、『荒野の用心棒』は
いきなり無許可で制作したというスタートから反則なのである。
優等生ではなく不良なのだ。今思うとそこが痛快だ。
さらに、許可を得た『荒野の七人』より面白い♪
多少、反則気味の方が面白い結果が出る見本のような本作。
パクリの上に、制作者がイタリア人という『規格外』のパワーがある。
レオーネ監督やモリコーネの音楽も世間には知られていなかった。
007がそうだったように、新しい世代が創った映画なのだ。
だから、それまでの常識を覆すことができたのだろう。
この映画には、西部劇は斯くあるべきというセオリーがない。
制作者の感性がそのすべてであり、黒澤映画はあくまで下地にすぎないのだ。
映画の中盤はちょっと間延びしているもののラストは一見に値する。
むしろオリジナルより面白いとさえ言える。
刀を銃に置き換えた戦いは、一瞬にして決着がつく。
この「一瞬にして』という演出は、映画の冒頭ですでに使用済みだ。
主人公ジョーが連射撃ちで悪者を撃ち倒す。
これをラストで繰り返すだけでは芸がない。
そこでレオーネ監督は知恵を絞った。
このラストの悪党との対決シーンは、オリジナルより見応えがある。
撃たれても撃たれても立ち上がるジョー。
えっ、何で? と観客は驚くのだ。こいつは不死身かと。
このシーンが秀逸なのは、イーストウッドの撃たれ方、と言うか倒れ方。
ライフルの弾を胸に受けるのだからその分の反動がある。
さらにジョーは胸に○○を入れているため、その重みもあるのだろう。
オリジナルの桑畑三十郎は、
ラグビーのように右に左に身を交わしながら悪党を斬っていく。
この動作をソックリパクっているのだが、
悪党を挑発しながら右へ左とへ歩きながら徐々に近づいて来るジョー。
ここで伏線が生きて来る。
悪党のラモンは異常人格者という設定だ。普通の悪党とちとちがう。
相手を撃つときに心臓を狙うというプライドがある。
銃の腕はいいのだが、このプライドを逆手に取られてしまう。
ジョーは挑発する。しっかり心臓を狙えと。
頭を狙われたら一発で終るという賭けだが、ジョーには確信があった。
ラモンは必ず心臓を狙うと。
この心理的な駆け引きがこの対決シーンの面白さだ。
ここがオリジナルとはまったくちがう『発明』であって、
ただサムライをガンマンに置き換えただけのパクリとは異質なのだ。
しかも非常にスタイリッシュである。
そしてライフルで撃たれても主人公が死なない理由が明かされる。
○○かよ~!! という驚き!
これは映画なのだ。つまり作り物だ。
そういう作った面白さが炸裂する種明かしに、観客は喝采したのである。
このラストシーンの対決は、個人的には『用心棒」より面白い♪
種明かしの後には、お約束の連射撃ちがあり、さらにその後に…
と、サービス精神満載である。
これを『パクリ』で片付けるのはもったいない。
似ているだけで『別物』と評したい。
余談だが、このラストシーンには明らかなウソがある。大ウソが。
しかしそのウソにツッコミを入れる人を私は知らない。
何がウソかというと、撃たれてもジョーが死なないのは
胸に○○を入れていたからというところだ。
確かに○○はライフルの弾ぐらい弾き返すだろう。理屈が通っている。
しかし、よ~く考えてほしい。
○○にライフルの弾が当たれば音がするということを。
銃の音はするがその弾がポンチョの下の○○に当たっても無音なのだ。
ありえない。
しかしここに弾を弾き返す音を入れてしまうとネタがバレる。
これは映画的なウソだが、かなり不自然なのに誰も突っ込まない。
それだけよく出来ているということだ。
観客が娯楽作品に求める面白さのツボがここにある。
オリジナルの『用心棒』のラストにはこういう映画的なウソはない。
パクリで始まり大ウソで終わる『荒野の用心棒』は、
その時点で『用心棒』を超えはしないが『別物』になっているのだ。
★★★★
時代の勢いというのは恐ろしい。
まさかこんなにも面白い西部劇がイタリアで制作されるとは!
誰もが期待しないところに勝機があった。
007も低予算のB級映画でスタートした。スタッフもキャストも新人だった。
『荒野の用心棒』も然りである。
無名の人たちには失うものがない。それは強みだろう。
イーストウッドもレオーネもモリコーネもそうだったにちがいない。
だから一発やってやろうという気概があったのだ。
パクリでもいいじゃないかと、妙に納得できるのだ。
これはお勧めですね。とても面白い!
★ネット上の『荒野の用心棒』の画像を流用・加工させて戴きました 感謝!★
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