岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

興味を持った本と映画のレビューとイラストを描く♪

なんとも異様な西部劇『続・荒野の用心棒』を熱く語る(其の一)♪

 

続・荒野の用心棒

DJANGO

1966年イタリア・スペイン/セルジオ・コルブッチ監督作品

満足度★★★★★

 

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アメリカ人がイタリア語を喋る~! ペラペラペ~ラ~♪

メキシコ人も負けじとイタリア語を喋る~!

ペラペラペ~ラ~ ペラペ~ラ~♪

そして、何の違和感もないからスゴイ~♪

『続・荒野の用心棒』とは、そういう映画である。

 

続編ではないのに、『荒野の用心棒』の次に公開されたため、

日本ではこのタイトルで浸透してしまった。

原題は『DJANGO』である! Dは発音しない♪

私にとって、これはとても想い出深い強烈な映画なのだ。

 

時代はビートルズと007の全盛期1960年代。

007に心酔していた私は、007の模倣映画にも夢中だった。

 

数ある007の模倣映画の中でも、ひときわ異彩を放つカルト映画に

『殺しの免許証〈ライセンス〉』というイギリス映画がある。

英国情報部員を主役にしたこのスパイ映画は、

他の模倣作とは一線を画していた。

テレビの映画紹介番組でこの作品を知り、もう夢中になったのだ。

しかし、中学生だった私にはお金がない。

泣く泣くロードショウは諦めざるを得なかった。

しかし数ヶ月後、『殺しの免許証』が2本立てで公開された!

その当時の公開パンフがこれだ!

 

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今思うと奇跡のような2本立てであるが、

当時の私はマカロニウエスタンには全く興味がなかった。

ただただ『殺しの免許証』が観たい一心で渋谷スカラ座に行った。

(『殺しの免許証』について語ると長くなるので割愛する)

 

さて、

私の記憶によれば、先に上映されたのは『続・荒野の用心棒』である。

なんだ、先に西部劇かよと、ちょっとがっかりしたのも束の間、

この映画の何がユニークかと言えば、そのオープニングだ。

いきなり薄汚れた黒ずくめの男の後ろ姿が映る!

男は馬の鞍を肩にかけている。そして徒歩だ!

おい! 馬はどうした? と、今ならひとツッコミ入れる余裕もあるが、

人間というのは、あまりにも意外なものを観せられると

それに対してすぐには反応できないものだ。

 

ひと呼吸入れて考えてみよう。これは西部劇なのである。

少なくともコルブッチ監督はそう思っていたはずだ。

この後ろ姿の流れ者が主人公のジャンゴである。

ある目的を持って、ある町にやって来た。

これはそういうシーンなのだ。

 

西部劇。流れ者のガンマン。オープニング。

この3つの要素をオーソドックスに表現すれば、

流れ者が馬に乗って、地平線の彼方からやって来るはず。

なにしろオープニングなのだから。

 

ところが『続・荒野の用心棒』という映画は、

流れ者が後ろ姿で画面から遠ざかって行くのだ。

宣伝文には、『夕日をあびてさすらいの用心棒が帰って来た』とあるのに。

エンディングではない。これから映画が始まるのだ。

夕日はどこだ?

帰って来たのか、帰って行くのかどっちやねん! と。

 

そして、あの名曲『さすらいのジャンゴ』が流れるのだが、

劇場公開時は、オープニングは演奏だけで歌はなかった。

ラストシーンのみ、あの歌が流れるという演出だった。

もちろん歌はイタリア語で、ギターのイントロから始まる。

『さすらいのジャンゴ』という名曲は、

オリジナルサウンドトラックはイタリア語のカンツォーネである!

伝統のカンツォーネらしく歌い上げる。声高らかに!

 

このイタリア語バージョンは今は存在しないようで、

オープニングにいきなり歌(英語バージョン)が流れ、

エンディングからギターのイントロがカットされた英語版が、

現在、われわれが観ることの出来る『続・荒野の用心棒』らしい。

しかし! と私は言いたい!

あの歌は最後に流れるから感動的なのである。

オープニングに流してしまうのはネタバレなのだ。

最後の最後までタメておいて歌い上げるからこその感動なのだと。

本編はイタリア語なのに、なぜ歌を英語に替えたのか?

なぜいきなりオープニングにあの歌を流すのか?

なぜラストのギターのイントロをカットしたのか?

ハリウッドとの商業的な力関係があるのだろう、多分。

 

私の記憶が正しければ、オープニングに流れたのはこの曲だ♪

オープニング曲

 

リアルタイムで観た『続・荒野の用心棒』は、この演奏から始まった!

やがて、黒ずくめのガンマンの後ろ姿の全貌が観えてくると、

なんとこの男、鞍を背負って徒歩で歩いているばかりではない。

棺桶を引きずっている!

棺桶である!!

 

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これは何なのだ! これが西部劇なのか?

そしてこのビジュアルの強烈さは何だ!

意表を突くこのオープニングには、今でも異様な雰囲気がある。

私はお目当ての『殺しの免許証』を忘れ、映画に没頭した。

  

★★

『荒野の用心棒』は、黒澤明の『用心棒』の堂々としたパクリだが、

『続・荒野の用心棒』は『椿三十郎』のパクリではない!

全編イタリア語のオリジナル西部劇である。

これを西部劇と呼べればの話だが♪

 

とにかく、全部イタリア人で創った西部劇(マカロニウエスタン)は、

『荒野の用心棒』ではなく、この『続・荒野の用心棒』である!

 

何より、盗作ではない!(部分的に似てるけど~♪)

渾身のオリジナル脚本だ!(だから安っぽいのか~♪)

フランコ・ネロのジャンゴがいい!(ミフネさんには演じられな~い♪)

 

では、

この映画がなぜ私にとって想い出深い強烈な映画なのかというと、

『続・荒野の用心棒』は、私が生まれて初めて感動した映画だからだ!

映画を観てしばらくは作品世界から抜け出せなかった。

感動的なラストシーンも印象的だが、主人公のジャンゴが強烈だった。

 

リアルタイムで観たとき、私は思春期の真っ只中にいた。

子どもにとって映画とは娯楽であった。

『ああ面白かった♪』と楽しむのが映画だと思っていた。

そういう先入観が打ち砕かれた最初の作品なのである。

この作品には、娯楽の中に『感動』という未体験の産物があったのだ!

 

だから、かなり長い間ジャンゴのテーマが頭から離れなかった。

45回転のドーナツ盤のレコードを買って、何度も聴いた。

ああ、もう繰り返し繰り返し聴いたさ。

聴くたびに沸き起こるこの不思議な気持ちは何なんだ?と思いながら。

 

そのときは、自分が映画に感動しているという自覚はなく、

ただ、心を揺さぶられる感覚が心地よかったことを覚えている。

 

今観ると脚本も粗く、どう観ても低予算で撮ったB級映画である。

主人公がカッコいいのも前半だけ。

善人とか正義のために戦う模範的な人間は出て来ない。

そう。これは西部劇なのに正義の味方が登場しない。

主人公は悪人ではないが、かなり複雑な人物として描かれる。

生々しい大人の姿がそこにあったのだ。

 

ジャンゴはその昔、ジャクソン一味に恋人を殺されたらしい。

その復讐のために町に戻って来たのだ。

最愛の人を奪われたジャンゴは、もう人間を信じない。

人間の残酷さを知ったジャンゴには、もう復讐しか残っていないのだ。

信じられるものは、己の銃と金だけである。

こういう主人公を西部劇で観たのは初めてだった。

 

全身黒づくめで、まるで死神のような後ろ姿は、

思春期の少年にとって、トラウマになるほどのインパクトがあった!

私はジャンゴという人間像に、ただただ打ちのめされた。

(つづく)

 

 

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