岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

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なんとも異様な西部劇『続・荒野の用心棒』を熱く語る(其の二)♪

 

続・荒野の用心棒

DJANGO

1966年イタリア・スペイン/セルジオ・コルブッチ監督作品

満足度★★★★★

 

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アメリカの純正ウエスタンと違い、

マカロニウエスタンには、高潔な理想を持った人物が登場しない。

開拓者精神も皆無で、主人公は必ずアウトローなのだ。

『荒野の用心棒』のガンマンがその象徴となった。

一役買ったのが、C・イーストウッドである。

非常にニヒルで、三船敏郎よりクールで寡黙だ。

 

では、

『続・荒野の用心棒』は、単なる亜流品なのだろうか?

『荒野の用心棒』とどうちがうのだろう。

まず主人公の造形の違い。百聞は一見にしかず。

イーストウッドのヒーローと比べれば一目瞭然だろう。

 

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イーストウッドは、やはりヒーロー然としている。

カッコイイのである。

比べてフランコ・ネロのジャンゴはと言えば、

黒ずくめに棺桶を引きずる異様さは、まるで死神のようだ。

見た目でこれだけの違いがあるというのは注目に値する。

つまり、この2作は全くの別物なのである。

 

『続・荒野の用心棒』も黒澤明の『用心棒』の影響下にある。

流れ者(ガンマン) 凄腕 対立する悪 主人公の窮地 悪との対決

大体こんな感じで組み立てられているのだから。

にもかかわらず、二番煎じにならなかったのは、監督の資質の違いだ。

同じセルジオでもコルブッチ監督は泥臭い。

この泥臭さ,生々しさを体現したのがフランコ・ネロである。

 

『荒野の用心棒』のときにC・イーストウッド

『続・荒野の用心棒』のときにフランコ・ネロがいたという幸運。

マカロニウエスタンの代表作となるこの2作品は、監督、俳優の他に

映画音楽の作曲家にも恵まれた。

『荒野の用心棒』のエンニオ・モリコーネに対し

『続・荒野の用心棒』には、ルイス・バカロフという作曲家がいた。

ルイス・バカロフはアルゼンチンの人で、

モリコーネ同様、映画界に入る前にカンツォーネの仕事をしている。

『続・荒野の用心棒』のテーマ曲は、このカンツォーネである。

名曲『さすらいのジャンゴ』は、

モリコーネの模倣ではなく、バカロフのオリジナルである。

 

また、

イーストウッドフランコ・ネロの配役が逆だったら、

マカロニウエスタンというムーブメントは起らなかっただろう。

 

イーストウッド、レオーネ、モリコーネという組み合わせ。

これは非常にスタイリッシュなチームである。

対して、ネロ、コルブッチ、バカロフというチームは、

情感に訴える泥臭い、生々しさを持っていた。

ほぼ同じ時期に、これだけ個性の違う映画が創られたのは奇跡なのだ。

 

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イーストウッドのニヒルなヒーローに対し、ネロのどこか悲し気な表情。

数あるマカロニウエスタンの中でも、この2人は双璧である。

イーストウッドが演じたガンマンには、

どこか突き抜けた超人的なキャラクターの強さがあり、

それが物語の推進力になっている。

それとは対照的にネロが演じたジャンゴは、とにかく人間的だった。

ここが決定的な違いなのである。

 

★★

私がこの映画に打ちのめされたのは、このジャンゴの人間的な弱さなのだ。

大人は子どもを守ってくれる強く正しい存在だと思っていた。

その先入観がこの映画で打ち砕かれた。

底なし沼に沈んでいく金塊にしがみつくジャンゴ。

ひたすら金に執着する姿が哀れだった。

こんな主人公は観たことがなかった!

 

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大人って汚いんだ。大人も弱いんだ。大人も辛いときは泣くんだ。

ジャンゴを観てそう思った。だから観ていて悲しかった。

等身大のリアルな大人を知った瞬間だった。

私に人間の弱さを教えてくれたのは、

ハリウッド映画やヨーロッパの文芸作品ではなく、この映画だった。

 

この作品は脚本が粗く、どう観てもB級映画である。

しかしその脚本には、人間のエゴや弱さがシンプルに描かれている。

多分に浪花節的だが、黒澤明の『用心棒』より生々しい人間を感じる。

大人になった今は、どうしても作品の粗を観てしまうが、

子どもの自分には、細かいところはどうでも良かった。

とにかく、ジャンゴという人間像がショッキングだったのだ。

 

超人ヒーローには限界がないが、人間ジャンゴには限界がある。

映画の後半、無敵のジャンゴが捕まり、暴行を受けるシーンはエグイ!

その痛々しい姿は、私の知らない弱い大人の姿だった。

だから、ジャンゴが可哀想でならなかった。

 

ミフネさんもイーストウッドもボコボコにされたが、

どこか安心して観続けることができた。

それは、主人公がその逆境を乗り越え反撃する強さを持っていたから。

主人公が反撃に移る前の必要な行程として窮地に陥るというのは、

観客をハラハラさせるための常套手段である。

ミフネさんもイーストウッドもこの行程を踏んで反撃に出る。

致命的なやられ方はしないのだ。

 

しかし、ジャンゴは違う。

ガンマンの命である両手を潰されてしまうのだ。この展開には震えた。

子どもの私にとって、両手を潰されるという見た目の残酷さより、

何もできないこの無抵抗のジャンゴの姿は、

信じていた強い大人像が、脆くも崩れていく瞬間だった。

 

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そしてジャンゴは全てを失う。

そのボロボロになったジャンゴが渾身の力を振り絞り立ち上がる。

 

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悪を倒しても,両手を失ったジャンゴにガンマンとしての明日はない。

しかしジャンゴには、マリアという女性が残った。

そのマリアの待つ酒場に向かって、ヨロヨロと歩くラストシーン。

 

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ここで初めて、満を持して流れるカンツォーネがこれだ!

エンディング曲

これをオープニングで流しては元も子もない!

そしてこの歌は、イタリア語でなければ感動は半減する!

 

★★★

『続・荒野の用心棒』とは、

生きる希望を全て失った大人の再起の物語である。

ミフネさんの素浪人もイーストウッドのガンマンも

一匹狼として生き抜く強さがあった。

しかし、両手を潰されたジャンゴは一人では生きて行けない。

ジャンゴは孤高のヒーローではなく、等身大の弱い大人なのである。

そんな男が、最後に愛を手に入れる。

そういう物語である。

 

こういう大人の物語が、子どもの自分に届いたということ。

作品は粗くとも、人間描写は案外しっかりしているのだ。

それをフランコ・ネロという役者が体現している。

セルジオ・コルブッチが演出したフランコ・ネロ(ジャンゴ)なくして、

この作品は成り立たなかったはずだ。

 

古い映画を久しぶりに観たが、ラストまで退屈しなかった。

やっぱり面白いし、とても魅力的な映画である♪

こういう当時の勢いで創り上げたお手軽B級映画が、

カルト作品として映画史に残るというのは、何とも痛快である♪

 

ネット上にある『続・荒野の用心棒』の画像をお借りしました。感謝!

 

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