岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

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『アマデウス』を観て考える♪

 

 

アマデウス

AMADEUS

2002年アメリカ/ミロシュ・フォアマン監督作品

★★★★★何回観ても飽きない面白さ!

 

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久しぶりに観たが、やはり面白い!

モーツァルト!』と叫ぶサリエリのしぼりだすような声と

背景に響き渡る音楽が観客の心をわしづかみにし、一気に物語に引き込む。

一体何が起こったのだろう?と画面に釘付けになる。

このオープニングは秀逸の一語に尽きる!

 

今回はディレクターズカット版を観たが… 長い!

2時間半ぐらいで、ちょうどいいのではないか。

とは言え、このドラマの面白さは少しも変わる事がない。

モーツァルトサリエリという実在の人物を描いているが、

なにしろ昔のことなので、正確な記録はない。

 

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実在したモーツァルトは、本当にあのように笑ったのか?

サリエリモーツァルトの間に、映画のような会話があったのか?

これは伝記映画ではなく、実在した2人の人間を描いたフィクションだ。

では、どんな人間を描いているかと言うと『天才』と『凡人』である。

 

世に天才はほとんどいないので、

多くの観客は『凡人』であるサリエリに感情移入して映画を観る。

人生の幾多の場面で、サリエリと同じ体験をする人は多い。

『自分にもっと才能があれば…』

多くの人は、心の中でそう叫びながら生きている。

 

これは、天才は知らずに人を傷つけるという映画である。

凡人は天才をねたみ、苦しく辛い人生を送るという映画である。

さらに、凡人がハーフマラソンすら完走できない!と嘆いている時、

天才はか~るく地球を10周ぐらい回ってしまうという映画なのだ。

なおかつ! 凡人が歯をくいしばって毎日サービス残業をしても、

天才の100分の1、いや 10,000分の1も稼げないという映画だ!

 

不公平だ! これでいいのか!

…と誰しもの心に、悲痛な叫びを誘発する危険な映画なのである。

 

『神の前では誰しも平等です』と神父は言うけれど、ホントかよ?と。

人と比べない生き方があなたを幸せにする、なんて本が売れてるけど、

ど~しても比べてしまうじゃあ~りませんかっ!と。
 

苦しくてくじけそうなとき、この映画を観ると確実に落ち込む!

特に不遇の身に耐えながら、創作活動をしている者には辛い!

どうかがんばってほしい! 夜明けの前が一番暗いのだ!!

そう自らを励ましても辛すぎる!

そういう現実を叩き付けられる映画なのである。

 

 

ピーター・シェーファーは、何でこんなお話を書いたのだろう?

『神に慈悲の心などない!』とでも言いたいのだろうか。

多くの観客がサリエリ目線で観るだろうこの映画、

では、モーツァルトの目線で観直すとどうなるだろう?

 

凡人のねたみは、時に凶器になる。

ねたみには、才能ある人間を破滅させるに十分な力がある。

天才的な能力とは、同時代の多くの人々にとっては脅威であり、

モーツァルトも他の天才と同様、絶望的な疎外感を味わったはずだ。

苦しみのない人生はなく、その点は凡人も天才も同じなのである。

ただ、天才の苦しみは凡人とは桁外れの『天才的な苦痛』なのだろう。

 

手塚先生は『ボクほど苦しんでいる人間はいない!』とおっしゃった。

ジョン・レノンは『天才とは苦痛である』と言い切った。

『この世で一番恐ろしい事は、かなうはずのない夢がかなってしまうこと』

そう言ったのは、マイケル・ジャクソンだっけ?

 

天才が払うこの『リスク』は、凡人の想像をはるかに超えたものだ。

それでも若い頃はそういうものに憧れる。

悲劇に酔い痴れるのは、一種のファンタジーだから心地よいが、

これが現実になったら大変なことになると想像できなければ不幸だろう。

だから、凡人が払う必要のない『リスク』に憧れるのはやめた方がいい。

自分がモーツァルトに匹敵する存在なら、その道を行けばいいが、

自分にモーツァルトのような才能があったらと切望するぐらいなら、

その才能がないから自分なのだと思う方が賢明である。

才能を持つことが、その人を幸福にしてくれるという保証はないのだから。

 

この映画をモーツァルト目線で観ても辛い映画に変わりはない。

シェーファーが書きたかったのはそういうことなのかなと。

 

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ラストで、仕事を手伝ってくれたサリエリモーツァルトは言う。

恥ずかしいよ、バカだった… 僕を評価していないと思ってた。

どうか許してほしい。悪かった…

 

モーツァルトは自分の持つ絶対的な才能が、

多くの人々にとって脅威だったからこそ執拗に妬まれたことを知っていた。

知っていたからこそ、そのねたみに自らの才能で反抗したのだ。

しかし、本心は人々に受け入れてほしかったはずだ。

モーツァルトの虚栄心は、不安の裏返しなのだ。

 

モーツァルトの謝罪を聞き、サリエリはハッ!とする。

そして、初めて聞くモーツァルトの謙虚な言葉に戸惑うのである。

しかし、サリエリの頭には未完の『レクイエム』の事しかない。

モーツァルトが自分の何百倍もの苦しみに耐えて仕事をしていた事。

偉業はその『苦しみ』の中にしかないという事にサリエリは気づかない。

サリエリは『才能』を求めはしても、それに伴う『苦痛』は求めない。

というより、その苦痛に耐えられないだろう。

それが『凡人』の証なのだ。

 

『大いなる能力には、大いなる責任が伴う』ということに、

サリエリは気づきたくないのかもしれない。

 

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われわれ凡人の多くが『天才』に憧れるのは、

この負のリスクの存在を知らないからだ。

天才とは一種の突然変異であり、

それは普通の人生を送れないことを意味する。

天才の負の面を知ろうとしない人は不幸だろう。

物事には何でも二面性があることを知らない人は不幸なのだ。

 

世の中は不公平だとこの映画は言っている。

それをサリエリの苦悩が証明している。

しかし、モーツァルトの苦悩がその二面性を証明するのだ。

 

そもそも人間が不公平だと嘆くのは損をしたときだけで、

不公平で得をするということを忘れている。

みんながハズレた抽選に、自分一人当たるのは不公平だろう。

自分だけが素敵な恋人に恵まれるのは不公平である。

自分だけ金銭的に恵まれるのも不公平だし、

美形に生まれるとか、群を抜いて知能が高いというのも

特別な存在という意味では不公平である。

言えば切りがないが、

どんなに不公平でも、得と思えるときに文句を言う人はいない。

何で私だけ一億円の宝くじが当たるのだ! 不公平だ!

と文句を言う人を私は見たことがない。

多くの人が不公平感を持つのは、物事の二面性を知らないからだ。

 

不公平だと思うことが本当に公平になったら、

果たして幸せになれるのだろうか?

自分にない能力が与えられたとき、今ある幸せが崩れないだろうか?

 

天才も凡人も、何らかのリスクを払い、しかも生かされているという点で、

平等だということをわれわれは忘れてしまうのだ。

 

神の無慈悲を非難するサリエリの言葉をそのまま受けとめると、

この作品に救いを見い出せず、私のように落ち込んでしまうだろう。

だから私はこう考えることにした。

 

隣の芝生は、青く広々と見えるもの。

しかし! 実際に青く広々とした庭を持つと、手入れが大変なのだ!

これはそういう映画なのだ!と。

 

 

凡人の神であるサリエリは、最後に自分と同じ多くの凡人の罪を許す。

凡人の罪とは、天才(神)に対するねたみ、無理解、嫌悪の感情である。

天才だけが味わう苦しみや孤独を想像できないという罪である。

何らかの能力に秀でるという事は、すばらしい経験が出来る反面、

大きなリスクを背負い『苦しむ』という事なのだ。

 

サリエリの頭上から聞こえるモーツァルトの笑い声は、

サリエリをあざけるものではなく、

多くの凡人に対する神の祝福の笑いかもしれない。

 

『神の前ではすべての人が平等なのだ』と。

 

そう解釈しなければ、あまりにも辛い映画じゃあ~りませんかっ!

 

私だって、一度はいい思いをしてみたい!

(そこが凡人やねん!)

 

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