江戸の可愛らしい化物たち
アダム・カバット 祥伝社新書 ★★★★ なんだか癒されるぞ♪
大分前に購入したまま積読になっていた本を読んだ。
これが意外と面白く、もっと早く読めばよかったと後悔した。
どんな本なのかと言えば、
つまりは化物について書かれた本である。
化物、バケモノ、ばけものがウジャウジャ出てくる本なのだ。
私は荒唐無稽の空想物が大好物なので、
そういうアンテナに触れたこの本を買ったのだろう。
そして今日まで忘れていた。嗚呼!
化物と聞くと、おどろおどろしい物を想像する人は多いだろうが、
この本はそういう本ではない。
江戸中期に、それまで上方が中心だった出版文化が
江戸で急速に発展したのだ、さあ、お立ち会い!
赤子本や赤本から始まり、黒本、青本と続き、
当世の風俗を風刺的に描く黄表紙という大人向けの本が誕生した。
これらの本はすべて絵入りの小説で、総称して『草双紙』という。
この中の黄表紙の時代に大活躍したのが『化物たち』だった。
草双紙は今でいうところの絵本に近く、
キャラクターの滑稽さでは、現在の漫画とも言える。
見開きに絵がドーンと描かれ、その周りに平仮名の文字がびっしりと書かれた
わずか10ページほどの庶民向け娯楽読み物だ。
こういう軽い娯楽本を経済的に余裕の出てきた庶民が求めた。
出版社は読者の期待に応えんと
次々に面白いキャラクター商品を創りだしていった。
そのキャラクター商品が『化物たち』である。
あら、面白そう♪
この草双紙の作者の一人が十返舎一九だ。
そう、あの弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』の作者である。
一九はかなりプロ意識が高かったらしく、
とにかく読者の期待に応えようとアイデアをひねり出していたようだ。
一九の作るお話の面白さと絵の上手さは群を抜いている。
一九の他にも、初代歌川豊国や勝川春秀、北尾政美などが健筆をふるった。
ではこの草双紙に登場する化物とはどんなものなのか。
これがね、笑うぞ♪ よう考えましたなぁ~ いうてね♪
♥
安永期(1772~81年)に江戸では大通という美的理念が流行っていた。
これは吉原でのしきたりやマナーを心得た人のことで、
ルックス、ファッションセンス、流行に敏感な人が求められたからだ。
当時の最先端を行くイケメンが大通というわけだ。
カッコイイ男がモテるのは、今と大して変わらない。
この大通の反対が野暮であり、
今も昔も大通と野暮がいるのが世の中である。
この野暮、つまり「ださいキャラ」が化物たちなのだ。
人間のマネをして失敗する愛嬌のある化物たち。
この時期、化物は「怖い」存在から「ださい」存在にされてしまった。
ところが、性格・生活様式のすべてが野暮ったい化物たちは、
江戸の庶民の大人気キャラとなったのである。
ではどんな化物たちがいるのかというと…
まず、人の後ろから覗き込むという悪い癖を持つ見越入道
これは化物の親分格である。
冴えないオヤジキャラのももんがあ(別名:ももんじい)
動物のモモンガから創作したらしいけど♪
普段はべっぴんさんだが、たまに細い首を伸ばすお馴染みろくろ首。
とても情熱的で恋の悩みが多いらしい。名前はお六ってか。
定番キャラは幽霊だ。
綺麗な幽霊の名はお菊、醜い幽霊の名は累(かさね)という。
定番と言えば動物系の化物たちも捨てがたい。
狐、狸、河童などのお馴染みキャラが登場するぞ。
そして真打登場!
これは草双紙が流行らせたニュータイプの化物である。
その名を豆腐小僧に鬼娘という。
豆腐小僧は寂しがりやで人の後をつけるが、悪さはしない。
豆腐を持って歩き回るだけのキャラ。なんだよコレ?
豆腐には紅葉のマークが付いていて、
「紅葉」→「買うよう」というシャレらしい。
ただの豆腐売りじゃん♪
鬼娘は安静七年(1778)に大当たりした見世物が元らしい。
鬼のような恐ろしい顔をした娘というキャラだ。
鬼伝説の進化形らしいけど♪
こういう化物たちが月のない夜に「月見」ではなく「闇見」をしたり、
お見合いするときは、理想はできるだけ醜い嫁がいいと言い、
部屋を借りるなら新しすぎない物件を望んだりと、
とにかく人間と正反対の珍事を繰り広げるのである。
これらの珍事を現代の用語辞典の形を借りて編纂したのが本書なのだ。
住宅事情から始まり、
職業、会議・研修、仕事での悩み、恋愛・セックス、美容・ファッション、
夫婦関係・結婚、親子関係、健康、趣味と続く抱腹絶倒の珍本である。
著者はニューヨーク生まれのおっさんだ。
アンタはエライ!!
♥♥
ではその中から私のお気に入りの作品を紹介しますね。笑うよ♪
まず、十返舎一九作画による作品だ。
『住宅事情』という項目に分類されるこの作品は、
化物たちの住処についての考察である。
化物だって高級な家に住みたいのだが、高級の基準が人間とは違う。
化物の感覚で高級とは荒れ果てた空家で汚くむさ苦しいことなのだ。
さらに壁は崩れ、床が草茫々となれば最高物件となるってか♪
上のイラストは狐の不動産屋が謝礼を持って見越入道と共に、
大家のムジナにご挨拶をしている場面だ。
そして不動産屋の狐が見越入道を紹介してひと言。
随分確かな人物でござります。
首は伸ばしまするが、店賃は伸ばしませぬ。
見越入道だけにね、と言うオチがつく。
実になんともバカバカしくって笑えるぜ♪
一九の緻密な絵を見てほしい。こんなにアホなのに手抜きなし! プロである。
『職業』という項目にあるのは狸の新商売。
田舎から上京した狸夫婦は家賃が払えず困っている。
そこで旦那が人間に化けて商売を始めたのである。
画面右で笑ってるのが人間に化けた狸公。
一般常識として、狸の金玉は広げると畳8畳ほど広がるのであった。
これが当時の一般常識というから笑うよ♪
そしてこの金玉を貸し布団にするという商売を始める。
イラストは、田舎から上京した多数の客がこの八畳の金玉で寝ている場面だ。
絵師は歌川豊国。豊国さん、金玉描くの楽しそうだな♪
ところが暫くすると、この布団が臭うというクレーム(オチ)がつく。
なんともバカバカしくて微笑ましいぞ♪
『職業』という項目にはこんな絵も。
十返舎一九の作に付けた勝川春英の精緻な絵に感動する。
ウエディングプランナーとは当時の仲人であり、ここでは蝦蟇親父だ。
お見合いをするのは、ももんじい家の娘(右)と一つ目家の一人息子(左)。
長い舌をペロリと出す気色悪い娘に、満更でもない若旦那。ウゲッ。
素晴らしいのは蝦蟇親父のキャラだろう。いいなぁ~ この蛙。
化物たちが喜ぶウエディングプランはこうなっている。
日にちは、雨の降る仏滅。
娘の衣装は、汚れた着物。髪は乱れ髪。
結婚式の場所は、狸の金玉の上ってなぁ… 臭いよ。
極めつけは婚礼のメニューだが、
お酒だけでなく、人間の足や頭の塩漬けが用意されるところがホラーである。
最後に私の好きなお話をふたつ。
題して『通勤ラッシュ』というこの作品に登場するのは幽霊だ。
地獄に住む幽霊たちは、地獄の鬼の笛太鼓に見送られ、毎夜娑婆へ出かける。
この幽霊の娑婆へのルートが実に面白い。
なんと、モグラに頼んで穴を掘ってもらうという。いいなぁ、この発想♪
しかしモグラたちにとって、娑婆まで穴を掘るのは大変な手間がかかる重労働。
そこで考案された新ルートが地獄までの掘抜き井戸だ。
以来、幽霊はヒュ~ドロドロドロ♪ という笛太鼓に合わせ、
井戸から登場するようになったらしい。ホントかよ!
もうこれだけで短編漫画が描けそうだ♪
モグラが掘る穴を通って幽霊が娑婆へ出かけるというのは絵的に面白い♪
なんかファンタジーだなぁ~ と微笑ましくなる♪
もうひとつは健康という項目にある『医学の進歩』というお話。
ろくろ首のお六の首が伸びなくなるという奇病が発生する。
お六に好きな男がいると知った医者は、
今夜その男が会いに来ると嘘をつくのだ。
するとどうなるのか?
いくら待っても現れない愛しい人を想うお六は、
首を長~くして待つことで奇跡の回復を果たす。
オイ! それを医学と呼ぶのか?
さらに、この首を元に戻すにはどうするかというと…
お六の髪に鉄の櫛と髪飾りを入れておいて、お尻に大きな磁石を当てる。
すると磁石の引力でたちまち首が縮まるという… なんだよコレ♪
医学でもなんでもないが、理に適ってる♪
♥♥♥
江戸の庶民は、かくもバカバカしい読み物を楽しんでいた。
なんとも大らかというか余裕を持って生きていたようだ。
創り手たちも真剣そのもので、持てる才を出し惜しみしなかった。
墨一色で描かれたこれらの絵のレベルの高さ、ユーモア、技法の確かさ、
どれを取っても一流である。
わずか10ページほどの読み捨ての娯楽なのにである。
遊び心といえばそれまでだが、要はゆとりがあったのだろう。
大人も子供も今よりは人間らしく生きていたのではと羨ましく思う。
この本を読んで思うのは、発想の柔らかさである。
創り手側と受け手側が実にしなやかなのだ。
こういうバカバカしいことを真剣に考えるのは子供の特権で、
大人になってしまうと完全に消えるか薄れていくものだ。
大人になると心に余裕がなくなるからだろう。
今思うと私の子供時代は幸せだった。
高度成長期の前で、社会が今よりずっとのんびりしていた。
幸せだったと思えるのは、子供でいられた時間が長かったということ。
何をしても『まだ子供だから』『そういう事は大人になってから』と言われた。
高校生ぐらいまで言われた記憶がある。
一体いつになったら大人になれるんだろうと思っていた。
親を含む周囲の大人たちが、なかなか私たちを大人にしてくれなかった。
間違っても『早く大人になって金を稼げ!』とは言わなかった。
その結果、長~い子供の時間を享受できたのだ。
私の小・中学校の同級生は、だいたい同じ体験を共有している。
これがどれだけ素晴らしいことかを知ったのは成人してからだ。
大人になると、とにかくいろいろある。
辛いこと悲しいこと腹立つこと理不尽なこと、
そして何よりも辛いのは自尊心を踏みにじられるという屈辱を受けることだ。
避けられるものなら避けたいが、避けられないことも多い。
そういう時、人間は自暴自棄に陥るしかない。
やり場のない怒りや哀しみは渦を巻いて行き場を失う。
気がつくと人を恨み社会を呪い… という負のスパイラルが待っている。
この負の渦に飲み込まれると脱出するのに数年から数十年かかる場合もある。
自分の人生が無駄に過ぎていくと感じる恐怖は経験した者にしかわからない。
その間の精神状態は尋常ではなく、気が狂いそうにもなる。
そして、あれだけ持っていた夢がひとつ消え、ふたつ消え…
気がつくと何にもなくなっている。
夢や希望は一度失うと取り戻すのは容易じゃない。
この容易じゃない状態を『大人になった』というなら拷問である。
一度大人になると二度と子供には戻れない。
多くの人生はそういう形を取るのかもしれない。
私もそういう経験をして大人になった。
ただ、何度も『もうダメだ!』と思った記憶はあるのだけど、
不思議と完全にダメになったことがない。
いつもわずかな夢や希望が残るからだ。
能天気な奴だと言われようともこれはいつもそうなのだから仕方ない。
今の自分の境遇を思うに『幸せ』とはかなり距離がある。
幸せの定義にもよるが、思い描いた人生とは違うなと。
にも関わらず、絶望とは少し距離があると感じるのだ。
この感覚はなんだろうと考える。
答えはいつも簡単に出る。
それは子供でいられた時間が長かったからだと。
ちょっとカッコイイけど、私はそう思う。
正直、自分の人生に絶望したことがある。
この先どんなに努力しても無駄だろうと確信したことがある。今もだ。
何度もそう思うことがあっても、不思議と夢は消えない。
根拠はない。何も。
ただ、完全に夢や希望が頭から消えた事は一度もない。
どんな時も、子供の頃の空想の世界が私の頭の中には常にある。
これは消そうとしても消えないマジックだ。
荒唐無稽が今も大好きだし、バカバカしいことも大好物だ。
神様は私に実用的な才能を与えてくれなかった。欲しかったけど♪
しかし、私には子供時代に空想の世界で遊んでいた頃のワクワク感が常にある。
どんな時もこれだけは消えたことがない。
一時的に消える事はあってもまたすぐ現れる。
そういうことを繰り返しながら今日まで生きてきた。
これからもそういう生き方しか私にはできないと思っている。
まぁ簡単に言えば、単に『馬』と『鹿』ということなのだろうが♪
草双紙のバカバカしさは、江戸の昔から
そういう子供時代の柔軟性を失わずに生きた大人がいたという証明かもしれない。
いい年こいた大人が真剣にバカバカしいものを創り楽しんでいたと思うと、
私はとても勇気づけられるのである。
人間と動物が違和感なく共存する異空間も心地よい。
現実的に考えておかしい! などと、
Amazonレビューのようなことを言う野暮はいなかったのだ。
多少臭くてもいいから、今夜は狸の金玉に包まれて眠りたいなと♪
人にお勧めできる本かは定かでないが、興味ある方はぜひどうぞ。
癒されますよ♪
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