岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

興味を持った本と映画のレビューとイラストを描く♪

知能の高さは幸せの条件だろうか?

 

 

高い知能って どうよ?


 

 

なんか凄いタイトルですが、

こういうタイトルの時は肩透かしが多いです♪

 

 

第一『知能』について私が語れるのだろうか?

そもそも『知能』とは何だろう?

パソコンの辞書ソフトで調べるとこうあります。

 

知識と才能。物事を的確に理解し判断する頭のはたらき。

学習し,抽象的な思考をし,

環境に適応する知的機能のもとになっている能力。

 

物事を的確に理解し判断するとか

環境に適応する知的機能のもとになっている能力

 

こう定義されると、

自分には持ち合わせの少ないもののようにしか思えず、

何か特別な能力という感じしかしません。

 

 

私は知能の持ち合わせが少ない子供でした

 

さて、自分の子供時代を思い返してみましょう。

とてもじゃないけど知的な子供ではなかった。

何しろ算数が大の苦手でしたから。

 

今でもはっきりと覚えていますが、

小学校の算数の授業で『ゼロ』を初めて習ったときのことです。

この『ゼロ』という概念がわからない子供でした。

 

『ゼロ』を学習するためにこういう練習問題が出ました。

 

78ー8=?

 

答えは70ですが、私は自信を持ってこう解答しました。

 

78-8=7

 

自信があったのにバツなんですね。

「えっ、なぜ?」と思いました。

78から8を取れば、残るのは7だろうと。

なぜバツなのかわからない。

『ゼロ』というのがわからなかったんです。

今なら笑い話ですが、当時は本気だったから怖い

 

絵的には正解なんですよ。

ある風景に7と8があり、8を消しゴムで消せば7が残ります。

見た目はそうですが、それは算数ではありません。

私はそういう子供でした。

可愛かったなぁ♪(ただのアホやん!)

 

算数が苦手というのは中学に進学しても変わりませんでした。

中間テストも期末テストも30~40点ぐらいしか取れません。

それに中学では『算数』は『数学』に進化していました。

 

悩んだ私は意を決して相談することに。

もちろん、クラスで一番数学が得意な子にです。

その子は『ひご君』といいました。

ひご君元気でしょうか?

 

ある日、意を決してひご君に聞きました。

「あのさぁ、どうやったら数学ができるようになるの?」と。

するとひご君はニッコリ笑ってこう言いました。

 

「岩井田君、そんなの簡単だよ。できるようになればいいんだよ!」

 

これが秀才の答えです。私は愕然としました。

それができないから悩んでるんじゃないか!

いわゆる『できる人の論理』ってヤ~ツ。

 

逆上がりのできない子に

「できるようになればいいじゃんと言うのは残酷です。

私はものすごく傷ついた。

 

ひご君は知能が高い子供でしたが、ちょっと冷たかった。

今どうしてるかな?

きっと、随分出世したんでしょうね。

 

私は劣等生でしたから、知能という言葉には人一倍敏感でした。

それは今でも変わりません。強い劣等意識が消えないのです。

 

でも『絵』が私を救ってくれました。

前にそういうことを書きました。

どんなにシンドくても絶望しなかったのは『絵』があったからです。

 

そしていつも頭の中では『アトム』が飛んでいました。

まぁ、純情で単純な子供でしたね♪

 

 

知能ってなに?

 

なぜ急に『知能』なんてことを書き始めたかと言えば、

アルジャーノンに花束を』の余韻が冷めないからです。

 

25歳の時の読後感とは全然違うものでした。

20代には見たことのない景色をいくつか見てきたからでしょうが、

それにしてもこの余韻は何だろう? と思うわけです。

 

よく考えると、自分の I Q がいくつなのか知りません。

特に知りたいとも思わない。

極端に低くはないだろうけど、まぁ、高くもないと思う。

高低はどうでもいいように思えます。

 

知能犯という人たちがいます。

頭のいい人たちでしょうが、要するに犯罪者です。

特殊詐欺のリーダーは知能犯でしょうね、なかなか捕まらないから♪

こういう人は高い知能の使い方を完全に間違えています。

 

高い知能を持って生まれた人は、

神様からそれを授かっているわけです。

その能力を「正しく使うこと」が授かった条件です。

 

様々な特殊能力(才能)も同じく神様からのギフトですから、

大切に、正しく使わねばなりません。

無駄遣いや間違った使い方はできないのです。

 

アルジャーノンとチャーリイが得た高い知能。

それは神様からのギフトではなく、人工的に作られたものでした。

ですから『落とし穴』があった。

本来得られぬ能力を力づくで手にするとそうなります。

 

高い知能を授かる人はごく一部です。

それには必ず意味があるはずです。

 

多くの人は高い知能は授かりません。並の知能です。

それほど多くの人に高い知能は必要ないからでしょう。

 

人類の大半が高い知能を持ったらどうなるか?

多分人類は滅ぶと思います。

 

だから人間にとって大切なのは、知能の高さではなく、

どんな力を与えられているかを知り感謝することです。

 

あればあったで感謝し、なければないで感謝するしかありません。

 

知能が高いと社会で生きやすく、有利なのは間違いありません。

知能が低いと苦労の多い人生になるわけです。

そこだけ見ると人生は実に不公平です。

 

岡本太郎さんは、その不公平に対してこう言いました。

「覚悟して生きろ!」と。

能力が低ければ低いところに立って戦え!

それが人生の『筋』なんだと。

人間はこの『筋』を通して生きなければならないと言いました。

 

それはまぁそうなんだろうけど… こういう生き方は常人には無理です。

太郎さんから学べることはただ一つ。

 

知能や才能という人も羨む力がないならないなりに胸を張る。

一種の開き直りですが、これしかありません。

だって持ち合わせがないわけですから。

凡人にはそれぐらいしかできません。

 

そしてできるだけ愚痴を言わずに努力する。

それが『筋を通した生き方』だと覚悟すること。

太郎さんの言う『生きる覚悟』とは、

何もない自分なら、その自分を引き受けることです。

 

私は子供の時にそんな覚悟はできませんでした。

ただひたすら劣等感と戦う毎日でしたから。

そこで得た結論は、他人より時間をかけることです。

 

どんなに笑われても、

時間さえかければ大抵のことはできると思った。

時間をかけてもできないことはたくさんありましたが、

それでも時間さえかければ何とかなると信じていました。

何とかの一つ覚えです。

 

ところが、

私と同じ考えで、ものになった有名人がいることを後で知りました。

その有名人とは、あのコロンボ警部です。

 

『殺しの序曲』というエピソードの中で、コロンボが犯人に語ります。

自分がどうやって刑事になったかを。

参考までにその全セリフを記します。

 

犯人と対峙したコロンボはこう語ります。

 

世の中ってのは不思議ですねぇ…

あたしゃ何処行っても秀才にばかり出会って、

いや、あなたやこのクラブだけじゃないんです。

お分かりでしょう?

学校でも頭のいい子は大勢いたし、

軍隊に初めて入ったときにも、

あそこにも恐っそろしく頭の良いのがいましたよ。

ああいうのが大勢いちゃあ、

刑事になるのも容易じゃないと思ったもんです。

 

あたし、考えました。

連中よりせっせと働いて、もっと時間かけて本を読んで、

注意深くやりゃあ… ものになるんじゃないかってネ。

なりました!

あたしはこの仕事が心底好きなんです。

 

あたしも70年間、

コロンボさんを見習ってがんばりました。

で、何とか絵で食えるようになったんです。

『知能の高さ』は、あまり関係なかったように思います。

 

 

何かを得ると何かを失うかもしれないという事

 

『アルジャーノン~』を読むと、

知能の高さは主人公のチャーリイをあまり幸せにしてくれなかった。

だから物語はハッピーエンドにはなりません。

少なくとも表面上は。

 

キイスさんがこの小説の初稿を編集者に見せた時の返事は、

「ラストが救いのあるハッピーエンドなら出版できます」

というものだったらしく、受け入れてもらえなかったと言います。

 

もちろんキイスさんは書き直さず、他の出版社に持ち込み、

現在の形(原型のまま)で出版したそうです。

 

20代に読んだ時は、アンハッピーエンドだと思ったのですが、

70歳になって読み返した読後感はそうではなかった。

むしろこの方がハッピーエンドじゃないかと思えました。

なぜでしょうか?

 

小説中にも出てきますが、

その人間に必要な力は、生まれるときに神様が授けてくれる。

それ以上のものを欲しがってはいけない。

ということです。

 

持っている能力はその人の人生で必要なものであり、

持っていない力は人生に必要ないものだということ。

他人を羨んではいけないというのはそういうことです。

 

誰かが優れた能力を持っていたら、その人の人生に必要な力であって、

自分の人生に必要なものではないと知るべし。

 

そもそも『嫉妬心』がなぜ起こるかというと、

本来自分が持つべき力を他人が持っていることへの怒りだそうです。

 

例えば、私のように絵描きを志したとき、

自分より優れた能力を持つ絵描きの卵に激しく嫉妬するわけです。

その絵を描く力は、本来俺のものだ!と思うから。

 

ですから、興味のないものには嫉妬心は起こりません。

幕下の若い力士が優勝しようが、

若く才能ある大谷翔平選手がホームランを何本打とうが、

私は全く嫉妬なんかしません。

自分には関係ないからです。

 

これはあるお坊さんの書かれた本に書いてあったことですが、

なるほどなぁと思いました。

 

人間はそれぞれに必要な能力を授かって生まれて来ますから、

他人の能力と比べることは本来何の意味もないわけです。

 

チャーリイが知的障害児として生まれたことには意味があります。

今回はその人生から学びなさいということです。

ところがチャーリイは科学の力で、

本来の自分にはない力を強制的に与えられてしまった。

だから本来のチャーリイではなくなっていき、

物語は進むにつれ、上昇したところで急降下し始めます。

 

表面上は悲劇に向かっているように見えますが、

本来の自分に戻っていく、安住の地へ向かっている、

という見方もできます。

 

チャーリイくんは、この急激な降下に必死に抵抗します。

「神様おねがい! この力を取り上げないで!」

結局のところ、彼は最後にどう思ったのでしょう?

それがあの小説のタイトルの意味です。

 

アルジャーノンに花束を

チャーリイは最後にそう書き記します。

 

その言葉は知性から出たものではなく、

愛を与える力から出たものに違いありません。

 

知能と愛情とどちらが大切かという二択ではないのです。

愛情というベースがなければ、知能の高さは意味がない。

キイスさんはそう考えてこの小説を書いたのでしょう。

 

人間の持つ許容量には限りがあり、何でもかんでもは入りません。

大きな品物を買うなら、何かを捨てなければならない。

住居のスペースに限界があるように、

人間の許容できるものにも限りがあります。

 

でも知能と愛情は人間の中で同居できるようです。

どちらか一つではなく、二つ仲良く。

そして、ベースになるものは愛情なんだと

キイスさんは天才チャーリイの言葉を借りて言います。

 

愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、

知能というものは精神的道徳的崩壊をもたらし、

神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。

つまりですねぇ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、

それ自体に関与するだけの心、

人間関係の排除へと向かう心というものは、

暴力と苦痛にしかつながらないということ。

 

僕の知能が低かったときには、友だちが大勢いた。

いまは一人もいない。

(P.364)

 

70年間ずっと劣等感を持って生きて来ました。

今でも劣等意識は完全には消えてくれませんが、

久しぶりにチャーリイ・ゴードンの物語を読んで、

なんだか少し救われたように思います。

有名な画家ではないし、いまだに評価もされませんが、

諦めずに生きてきてよかった。

 

 

 

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