岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

興味を持った本と映画のレビューとイラストを描く♪

あまりにも有名な『フランケンシュタインの怪物』原作小説♪

 

 

 

フランケンシュタイン

メアリ・シェリー 創元推理文庫

★★★★ 古風なゴシック小説!

 

有名なのにあまり読まれることのない小説の一つ。

フランケンシュタインの怪物を知らぬものはいないが、

では原作を読んだかと聞くと、ほとんどの人が読んでいない。

これは日本だけでなく、欧米でも読む人は稀だという。

 

映画のフランケンシュタインを観て感動した私は、

中学生の時に一度読んでいるが、

読んでいて退屈だった記憶しかない。

 

自分が子供だったこともあり、

大人になった今、改めて読んでみようと思い立った。

 

購入したのは1831年の第3版(決定版)だが、

初版は1816年となっている。

つまり、200年ほど前に書かれた小説なのだ。

子供の私が読んで退屈したのも宜なるかなである。

 

 

 

作者のメアリ・シェリーの時代は、

ゴシック小説(恐怖小説)が流行った時代で、その影響を受けている。

当時は、恐怖小説を書くことは珍しいことではなかったらしい。

 

1816年の夏、旦那で詩人のシェリーさんとスイスを訪れ、

バイロン卿の隣人となり、医師のポリドリとも知り合う。

あいにくの雨で外出できずに退屈していると、

バイロン卿が「皆で恐怖小説を書こう!」ということになった。

これが『フランケンシュタイン』の誕生秘話というのは有名な話。

 

いつの時代も後世に残る作品は、こういうひょんな事から生まれるもの。

後世に残そうなどと画策しても、そうそう残るものではない。

 

ちなみに4人のうち、実際に小説を書き上げたのは2人だけ。

ポリドリが『吸血鬼』(吸血鬼小説の原点)を書き、

メアリさんが『フランケンシュタイン』(SFホラーの原点)を書いたという。

メアリさんは1797年生まれだからこの時、弱冠19歳だった!

 

メアリさんの両親は、

父が急進的革命思想家で、母が女権論者だったという。

メアリさん自身、子供の頃からお話を書くことと

白昼夢にふけることが趣味だったというから、素質があったのかも?

 

こういう背景を持った200年も前の小説が、

12歳の中学生には退屈に感じられたのは当然だろう。

SFホラー小説はここから始まったと言われるが、

フランケンシュタイン』自体は、とても古風なゴシック小説である。

 

ただ、子供の私が読んで感動した部分がいくつかあり、

それは今回再読した時も変わらず、色褪せぬ魅力があった。

ではまず、原作が映画とどう違うのか?

というところから始めよう。

(またしても長い文章やから、覚悟して読んでや)

 

 

♥♥

映画はとてもシンプルな作りだが、

小説の方は少し凝った作りになっている。

 

まず、海洋冒険家ロバート・ウォルトンの手紙からお話は始まる。

ウォルトン氏が北極付近で瀕死の男を助ける。

これがヴィクター・フランケンシュタインという天才科学者で、

お話はウォルトン氏の手紙からフランケンシュタインの回想に変わり、

その中で生命誕生の秘話が語られるのである。

 

お話はさらに、

彼の回想に登場する怪物の独白という形に変わり、

再びフランケンシュタイン博士の回想に戻り、

冒険家ウォルトン氏の手紙に帰結するという構成である。

 

映画版は、まずこの最初と最後の冒険家の手紙をバッサリとカット。

まぁ、なくても物語は伝わりますから。

 

次に、フランケンシュタインに造られた人造人間の設定だが、

映画版は殺人鬼の脳を使ったため怪物になったというのに対し、

小説では、この怪物は人間の言葉を話せる(理性を持つ)のである。

 

ボリス・カーロフの怪物は、ほとんど話せず唸るだけだった。

それが悲しさと哀れさを感じさせたのだが、

原作の怪物は、見かけは醜悪だが細やかな神経の持ち主として描かれる。

ここが子供の私には物足りなかったのだろうが、

実験室から逃げ出した怪物が人間社会に溶け込もうと

必死になって人間の言葉を学習する下りは、

子供の私にも、とても印象的だった。

 

小説の怪物は己の醜さを理解し、嫌悪しているものの、

それでも人間と友達になろうと涙ぐましい努力をするのだが…

この先はネタバレになるので詳しくは書けない。

 

この怪物の涙ぐましい努力の結末は、

子供の時読んだ以上に今回も感動的だった。

 

怪物は人間社会では生きていけぬと悟り、

フランケンシュタイン博士に自分と同じ女の人造人間を造るよう頼む。

映画では女の人造人間を造るシーンはカットされたが、

続編の『フランケンシュタインの花嫁』で登場している。

 

大きな変更はこの3点のみ。

 

人間の言葉を話す理性を持つ身の丈2メートルの醜い怪物。

これがメアリ・シェリーが生み出したフランケンシュタインの怪物で、

映画版は、見かけも中身も怪物というわかりやすいキャラになっている。

 

映画は原作のエッセンスを実にうまく脚色して90分にまとめている。

そして何より、カーロフのあのメイキャップが決定的だった。

それがフランケンシュタインの怪物のイメージとなってしまった。

 

今回再読して気がついたことがもう一つある。

メル・ブルックスの映画版パロディ『ヤングフランケンシュタイン』だ。

この中に、

なぜ怪物は体が大きいのか? という疑問に

「その方が造りやすい!」

というしょうもないギャグが出てくるのだが、

これがなんと原作通りで驚いた。

 

早く仕上げるには部分部分のこまかさがたいそう邪魔になりますから、

当初のつもりとは逆に、巨大な体格のものを造ることに決めました。

つまり、身の丈八フィート、

それに比例して全体を大きくするのです。

(P.70)

 

身長2メートルの怪物は、

体が大きい方が造りやすいという発想が

今から200年前の人にもあったために生まれたものだった。

そりゃあ大きい方が造りやすいだろうけど、

血管や神経の一つ一つを一体どうやって造ったの?

という疑問は残る。まぁいいや。

 

 

♥♥♥

さて、

原作小説がなぜ退屈かというお話。

読む人によっては退屈ではないかもしれないのだが、

まず情景描写がやたらに丁寧である。

さらに、登場人物一人一人の背景も実に丁寧に描かれている。

そしてメアリーさんの文体はあくまで格調高くお上品なのだ。

 

今読み返しても少しイライラする。

当時はこれが普通だったのだろうが冗長な感じは否めない。

ホラーではなく、ロマン主義文学という感じである。

 

とにかく格調が高い。

メアリ・シェリーという女性が気品のあるインテリだったのでしょうね。

200年前のスイスやイングランドの風景やそこに住む人たちを

実に丁寧に格調高く描いていますから。

 

斜め読みはせずに時間をかけて、私も丁寧に読みました。

読んでるとくせになりそうな瞬間もありましたが、やはりシンドイ。

これは現代の小説がそれだけ刺激的だということでしょう。

200年前の文体はのんびりしています。

 

まぁそれはともかく、

劇中で怪物とフランケンシュタイン博士が激論を交わす場面は圧巻。

 

さあ、ここからは怪物の独白集です

 

怪物は創造主のフランケンシュタインに切々と訴える。

なぜ私のように醜い人間を作った? と。

 

 

おれの意地が悪いのは、不幸だからだ。

全人類に忌み嫌われるおれではないか?

造り主のあんたまでが、この身をズタズタに引き裂いて、

かち誇ろうというんだ、それを忘れるな。(P.190)

 

そして、自分と同じ女の人造人間を造ってくれと懇願します。

 

自分はひとりで、そしてみじめだ。

人は誰もかかわりを持とうとしない。

だが自分と同じくらい醜く恐ろしい生き物なら、自分を拒むことはないだろう。

自分の伴侶は自分と同じ種族のもので、同じ欠陥を持たねばならぬ。

そういう生きものを創ってもらわねばならぬ。(P.189)

 

誰かがおれに良い感情を持ってくれさえしたら、

おれは百倍、二百倍にもして返してやろう。

(中略)

筋の通った穏当な頼みじゃないか。

おれと性の違う、同じくらいおぞましい生きものを創れと言うんだ。

満たされるものはちっぽけだが、受け取れるものはそれしかないのだから、

それでおれは満足しよう。(P.191)

 

おれに同情を寄せてくれる生き物もいると、見せてくれ。

この頼みをはねつけないでくれ!(P.191~P.192)

 

嫌でたまらぬ孤独を無理強いされるからおれの悪徳は生まれたのだ。

同等の者と一緒に暮らすことができれば、

きっと美徳が育つだろう。

(P.194)

 

怪物の主張はすごく真っ当で説得力がある。

おぞましい怪物として生まれた身には、受け取れる幸せはごく僅かしかない。

怪物がそれで満足しようと懇願する姿は涙を誘う。

 

しかし、フランケンシュタイン博士は怪物との約束を破り、

造りかけの女の人造人間をズタズタに引き裂いてしまう。

怪物は激怒する。

 

人はみな胸に抱く妻を見つけ、けだものにもみな連れがいる、

だのにおれにはひとりでいよと?

 

このおれがみじめさのどん底にはいつくばっているときに、

おまえを幸福にしておくものか。

ほかの情熱は挫かれようとも、復讐は残るぞ-

復讐、これからは光よりも食べものよりも尊いものだ。

(中略)

用心するがいい、おれは恐れを知らぬ、だから力も強い。

蛇のずるさで機をうかがい、蛇の毒で刺してやる。

いいか、おまえの行う仕打ちを、悔やむときがきっと来るぞ。

 

だが覚えておけ、

おまえの婚礼の夜に、きっと会いにゆくぞ。

(P.220~P.221)

 

ここら辺から、怪物の博士に対する憎悪は半端なく恐ろしいものになり、

おぞましい悲劇の連鎖が始まるのだ。

読んでいて胸が締め付けられる。

 

この恐ろしい物語を200年も前に良家のお嬢さんが考えた。

メアリさん、なんかスンゴイものを書いちまったなぁと。

 

そして復讐を遂げた怪物は、己に絶望して叫ぶ。

 

自分が人と分けあいたかったのは、徳への愛、

自分の全存在に満ちあふれる幸福と愛の思いだった。

だが、その徳も自分には影となり、

幸福も愛もにがく忌まわしい絶望に変わってしまった今、

何に共感を求めたらいいのだ?

 

栄誉や献身の高い理想にはぐくまれた自分だった。

それが今、

罪が自分をもっと卑しいけもの以下におとしめてしまったのだ。

 

だが彼、神と人類の敵にさえ、

わびしさをわけあう仲間はあったんだ。

自分はひとりだ。(P.294)

 

数年前、世界が与えるものの姿が初めてこの目の前にひらけ、

こころよい夏の暑さを感じたとき、

木々の葉ずれ、鳥のさえずりを耳にして、

それが自分のすべてだったあの頃なら、死ぬと知ったら泣いただろうが、

今は死がたったひとつの慰めだ。

罪に穢れ、にがい悔恨にひき裂かれて、

死以外のどこに安らぎがある?

 

さらばだ! おれは行く、

そしておまえがこの目に映る最後の人間となるだろう。

さらば、フランケンシュタイン(P.296)

森下弓子訳

 

 

これがメアリ・シェリーの創造した怪物なのだ。

映画とは全くの別物だということがわかると思う。

原作小説は300ページちょっとあり、読むのがシンドイという方は、

この怪物の叫びの抜粋を読んで、そのエッセンスを汲み取って欲しい。

 

 

♥♥♥♥

先に書いたように、

原作小説はマイナーな作品で、読む人は少ない。

それでもこの古風なゴシックロマンが今日まで残っているのは、

映画の影響が大きいとは言え、

やはり、この小説が生み出したものの大きさにある。

つまり、フランケンシュタインの子供たちだ。

 

1921年チェコの作家カレル・チャペック

『R.U.R』(ロボットの語源となった劇)を書き、

人造人間の反乱を描いた。

これもフランケンシュタインの怪物のバリエーションだろう。

 

人間が創り出した人間を超えるものが人類に反旗を翻すというテーマは、

新しくは、フィリップ・K・ディック原作の映画化

ブレード・ランナー』のレプリカントに進化する。

反乱を起こし地球に帰還したレプリカント(人造人間)が求めたものは、

与えられた4年の寿命を延ばす延命だった。

 

フランケンシュタインの怪物につきまとうのは疎外感・孤独感である。

私も子供の頃から他人とは違う自分を持て余した記憶があり、

そういう疎外感は今もある。

 

フランケンシュタインの怪物とは、

外見の醜さだけでなく、その存在が『異物』と疎まれる感覚にある。

社会性のある人間にとって、

他者から『異物』と排除されるほど耐え難いことはない。

 

そういう仕打ちを受けた人間がまともに自己を実現させるのは困難だろう。

どこかで怪物になっても不思議ではない。

 

メアリ・シェリーが200年前に創り出した怪物は、

疎外される人間の孤独、悲しみ、絶望の象徴となった。

 

その怪物の悲しみを映画ではカーロフという稀代の役者が体現している。

原作と違い、言葉をしゃべれぬ怪物が悲しい。

 

小説自体はとても古風だが、そのテーマは今も生きている。

さしずめ現代のフランケンシュタインの怪物は生成AIだろう。

それまでの怪物は肉体を持っていたが、

生成AIはプログラムだけに、体を持たない。

実体がなく、見ることができないだけ恐ろしい。

 

以前、

コンピュータは『自分』を認識できないという内容の本を読んだ。

プログラムは、どこからが自分でどこからが他者かを認識できないという。

自分の体を持たないからだ。

 

生成AIにあることを調べるよう指示すると、

それらしい論文とそれが掲載されているURLを数秒で表示するが、

その論文もURLもすべてデタラメだったという話がある。

 

生成AIに悪意はないのだろう。

とにかく指示されたものに近い情報を見繕って提示する。

適当な情報がなければ、それらしいものを必死で作り上げる。

ある意味、けなげだが『偽造』という感覚はAIにはないのだ。

 

これをどう受け止めるかだ。

意図的に嘘をつくなら、より人間に近いとも言える。

 

鉄腕アトム』に『電光人間の巻』というエピソードがある。

その中に登場するスカンク草井という悪人がお茶の水博士にこう言う。

 

「完全なロボットとは、悪いことができるロボットだ」

 

だから、正しいことしかできないアトムは不完全だと言うのである。

小学生の時、このマンガを読んで衝撃を受けた。

アトムは悪いことができないから正義の味方だと思っていたのに、

『悪いことができなければ、人間的とは言えない』

と言うスカンク草井の言葉はショックだった。

 

生成AIがより人間的になるというのは、

平気でウソをつき、偽の情報を流し、世界を混乱させるということなのか?

 

人を愛するAIが登場すれば、人を憎悪するAIも出てくる。

善意を持つAIが生まれれば、悪意を持つAIも生まれるだろう。

そうならないように世界はこの問題にとても神経質になっているが、

必ず抜け道というのはあるものだ。

 

つまり、どんなに監視しても悪質なプログラムは生まれる。

それはフランケンシュタインの怪物になりかねない。

 

メアリ・シェリーが今から200年前に提示したテーマは、

決して時代遅れなものではなく、

ようやく時代が彼女の小説のテーマに追いついたとも言えるのだ。

 

非常に古風な小説なので、読むのがシンドかったが、

それでも読んでいる間は、ワクワクゾクゾクが止まらなかった。

そのテーマは決して色あせることはなく、

中学生の時に読んだよりも感動が深かった。

 

お暇な方はぜひ読んでみてほしい。

おすすめの逸品です。

 

 

♥♥ おまけ ♥♥

私は『フランケンシュタインの怪物』が大好きで、

はてなブログには、他に3つの記事を書いています。

ご興味のある方は、下記リンクからどうぞ。

 

『ヤングフランケンシュタイン』を観て笑う♪ 

メル・ブルックス監督の傑作パロディのレビュー)

 

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