岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

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なぜ売れる『ハリー・クバート事件』という本♪

 

ハリー・クバート事件 上・下

ジョエル・ディケール 創元推理文庫 ★★★★

 

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その存在を全く知らなかったのだが、

書店の棚にこの本の背表紙を見たとき、なぜか惹かれるものがあった。

『ハリー・クバート事件』とは今どき地味なタイトルだなと。

こんなんで売れるんか?と。

しかも、上下巻本で1,000ページほどある。

誰が読むんだ、こんなぶ厚い本?

 

どうやらミステリーらしい。

自慢じゃないが、私はSFだけでなく推理小説も苦手なのだ。

特に、本格物と呼ばれる名品ほど食指が動かない。

 

ミステリーでは、だいたい冒頭で人が死ぬ。

そして、誰が何のために? という謎解きが始まる。

謎解きが始まるやいなや私は思うのだ。

だれだっていいだろと♪

どうやって殺害したのか?

知らないよと♪

 

こういう感性しか持ち合わせない人間に

本格推理ものは退屈以外の何物でもなかったりする。

 

『ハリー・クバート事件』という本は、大ベストセラーだそうな。

さらに、徹夜必至の面白本なのだそうな。

ふ~ん… 最後まで読めればね。

買うまいと思うのだが、なぜか後ろ髪を引かれる。

上巻だけだよ、私だってヒマじゃないんだから!

というわけで、上巻を買って読み始めた。

60ページぐらいで飽きるだろうと思いながら…

 

作者のディケールさんはスイス人だが、小説の主人公はアメリカ人だ。

舞台もニューハンプシャーのオーロラという小さな町である。

ある女性の通報から物語は始まる。

 

若い娘が男に追われ、森の中を逃げて行ったと。

同じ女性から続けて通報があり、その娘さんが今ここにいる。

助けに来てほしい!というのだ。

警察が駆けつけると通報した女性の射殺死体があり、娘の姿はない。

行方不明になったのは、15歳のノラ・ケラーガンという牧師の娘。

通報した女性の殺害犯もノラの行方もわからぬまま33年が過ぎる。

 

本編はこの事件の謎解きになる。

事件の通報者を殺したのは誰か? ノラはどこへ行ったのか?

そもそも、そこで何が起ったのか?

 

いつもの私なら、どうでもいいよとなるのだが、

この本のある仕掛けによって最後まで付き合うことになった。

その仕掛けとは?

 

主人公のマーカス・ゴールドマンは新進気鋭の若手作家である。

特に珍しい仕掛けではないが、主役が作家なのだ。

しかも、デビュー作で評判をとった後、

ライターズブロックに陥り、第2作が書けないという設定。

どこか他人事とは思えないじゃないか。

 

書けない(描けない)という苦痛。不安。絶望、恐怖。

ええ、ええ、知ってますとも、そりゃ~もう。

趣味で行う創作活動は楽しいが、一度職業にしてしまうとね、

それはもう言うに言えない◯◯なのでございます♪

(◯◯には適当な言葉を入れてね♪)

 

デビュー作で傑作を書いてしまうとそれを超えられないという悲劇。

徐々に成果を上げるならまだしも、

いきなり大きな成果をあげてしまうと、生涯、その成果と比較される。

それを超えられないと一発屋なんて言われてしまう。

これは辛いし怖いことなのだ。

精神の均衡を失うほどのとてつもない重圧に苦しむ。

さり気なく作ったギャグが世界を席巻してしまう。

デビュー作の役柄が生涯の当たり役になる。

頼みもしないのに親が超有名人etc…

いずれもなかなか超えられない壁である。

 

この本の主人公マーカスくんがまさにそれ。

もうどうやっても第1作を超えられない、何も書けない。

創作の神様から完全に見捨てられている。

しかし、出版社との契約では近々新作を完成しなければならない。

冒頭の殺人事件など、もうどうでもよくなった。

マーカスくん、がんばれ!

その一心で読み進める私であった。

 

さて、マーカスくんはどうしたか?

逃げた!

住んでいるニューヨークからオーロラの町へ。

そうだ、逃げろマーカス!

出版契約も大事だけど、おまえは出版社の奴隷じゃない。

金儲けしか考えない俗物の餌食になんかなるな。

逃げるんだマーカス!

 

少なくともこの時点で、私はこの本がミステリーであることを忘れた。

 

マーカスが逃げ込んだのは学生時代の恩師の家。

その恩師の名がハリー・クバートである。

しかも、マーカスと同じ作家で超有名人。

マーカスは泣きついた。ハリー、助けて下さいと!

 

実に興味深い展開ではないか。

どうなるんだマーカス!

この『どうなるんだマーカス』という興味が最後まで尽きない。

これがこの本を最後まで読めた一番の理由だろう。

 

結局、何も書けずにマーカスがニューヨークに戻った後、

ハリー邸の庭から33年前に行方不明となったノラの遺体が見つかる。

ノラの遺体と共にハリーの直筆原稿まで!

ニュースでハリーの逮捕を知ったマーカスは、

出版社が止めるのも聞かず、ハリーの無実を証明するため再びオーロラへ。

ここからマーカスの素人探偵劇が始まるのだ。

 

マーカスが探偵役となり、オーロラの町の人々に聞き込みを始める。

ハリーの無実を証明するために残された時間はわずか。

さらに、マーカスの原稿の締め切りまで2週間。

出版社との約束を守れない作家は破滅する。

マーカスのような新人作家なら確実に。

恩師の無実を証明しようとする探偵役が締め切りを抱えているという

笑うに笑えないサスペンス(私にとってはホラーだが♪)

犯人を追うものが締め切りに追われているのだ!

 

オーロラの町の人々に聞き込みをするマーカスの調査が

過去と現在を行ったり来たりする。

そして、この行ったり来たりの間に、徐々に当時の様子がわかってくる。

ハリーとマーカスの師弟愛。

ノラを取り巻くオーロラの人々の証言。

 

面白いのは、いかにも怪しいという人物が登場しない。

オーロラに住む人々はみな善人で裏があるとは思えないのだ。

とてつもない謎が隠されている気配すらない。

 

ところが、ノラという少女の姿が浮き彫りになる辺りから、

えっ?とページを繰る手が止まらなくなる。

ニューヨークへ帰れ! という脅迫状がマーカスに届く。

誰かがマーカスを厄介払いしたいらしいのだ。

しかし、それらしき人物が見当たらない。

一人一人の登場人物が丁寧に描かれていくので、

犯人探しより、町の人たちの人間模様だけでも面白いぞ。

 

期日までに第2作を書き上げろ! とマーカスを強迫する出版社。

そこでマーカスは遂に決心する。この事件の全貌を小説に書こうと。

喜んだのは出版社の社長だ。

マーカス! よく決心した。締め切りは延ばす。

100万ドルの契約金を払う!

だから書け!

読者が喜ぶようなちょっとしたサービスシーンを忘れるな!

これは売れるぞ。大ベストセラー間違いなしだ!

 

ちょっと待って下さい、社長!

ハリーの名誉のために書くんです。サービスってなんですか!

 

甘ったれるなマーカス! 今や出版界は売れた者の勝ちなんだ!

お前の望む至高の文学なんぞは、誰も求めちゃいない!

なんならゴーストライターに頼んでもいいんだぞ!

もうすでに頼んであるがな♪

 

書きます! 全部僕が書きますからゴーストライターは断って!

必ず期日までに書き上げますから!

 

そしてマーカスは、作家としての自分を取り戻していくのだが…

物語は2転 3転 4転 5転と転がり転がりどこへ行く?

 

この後は書けない。

何を書いてもネタバレになるだろう。

本格ミステリーを読み慣れた読者には物足りないらしい。

この作品を『いまひとつ』と酷評するのはそういう人たちだ。

しかし、私のようにミステリーに疎い素人には楽しめる♪

 

翻訳にクセがなく、スラスラ読める。

訳者の橘明美女史は『その女アレックス』を翻訳した人だ。

原文も平易な文体なのだろう。

ディケール氏の文章には、ほとんど『比喩的表現』がない。

まるで○○のような○○が○○のように云々… という表現だ。

 

比喩は文章に豊かさをもたらすが、凝りすぎると辛くなる。

その点、平易な文体は玄人には物足りないが読みやすい。

 

読みやすいからベストセラーになるわけではないが、

ページを繰る手が止まらなくなるのは事実。

私は止まらなかった。

そもそも、ふだん本を読まない人が買わなければベストセラーにはならない。

評判につられて購入する人が大勢いることは間違いないが、

買った人が最後まで読むとは限らない。

この本は、読了した人の確率がかなり高いと推測できる。

つまり、多くの人の『ページを繰る手』が止まらなくなったのだ。

 

欠点を書けばきりがない。曰く、長すぎる。曰く、荒削りだと。

読めばわかるが当たってるよ♪

 

驚天動地の怒濤の展開はなく、前代未聞のドンデン返しでもない。

よく練られてはいるが、驚くほどのオチではないかも。

それでも先がどうなるか知りたくなる不思議。

思うに、オチが書きたくて書いた小説ではないのだろう。

登場人物の行動を丁寧にからみ合わせていくとこういう結末になる。

その結末に破綻が少なく、納得出来る。

 

さらに、

もしあそこでこうならなければこうなったろうにと思わせる展開の妙。

微妙なズレから生じる誤解。

人間心理を深く追求した文学性は『浅い』としても、

それでも登場人物に感情移入はできる。

酷評されるほど『あり得ない人物』は登場しない。

 

作者も『面白い作品が書きたかった』と述べているように、

これはあくまで作り物の娯楽作品である。

さらに作者が『私は想像の産物しか書かない』と言っているように、

舞台となるオーロラという町は実在しないようだ。

微妙に地名と場所を変えていたりする。

現実と創作の混合体。そういう作風である。

 

こういう小説を読んで思うのは、

どんなにうまく書けた小説も人に読まれなければ意味がないということ。

つまり,最後の一字まで飛ばさずに読ませるということだ。

これは書く技術を学んでもなかなか身につかない。

そういう天性のものを感じる本だった。

 

面白いかどうかは読む人次第。

つまらなければ途中でやめた方が時間を節約出来る。

追いつめられたマーカスくんのその後をどうしても知りたい人、

意外性はあっても前代未聞のオチを持たないこの物語が、

なぜ『徹夜本』と呼ばれるのか知りたい人。

さらには、意地悪くこの本の『あら探し』を楽しみたい人。

 

そういう人は、食わず嫌いをせずに読んでみてはどうだろう。

まずは、上巻の出だし60ページほどをお勧め致します。

 

  

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