岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

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岡本太郎にはなれないが…


孤独が君を強くする
岡本太郎 興陽館  ★★★★☆志が高すぎる!

 

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自分がどう見られているかじゃなくて、
自分はこれをやりたい、やる。
やりたいこと、やったことだけが自分なんだ。

 

これは岡本太郎が残した言葉のひとつだ。
岡本太郎と言えば、『芸術は爆発だ!』というフレーズで有名な
あの国民的芸術家の岡本太郎である。
岡本太郎自身は、芸術家という呼び名が嫌いだったそうだ。
人間岡本太郎と言った方がいいのだろう。


超人、変人、激情家、信念と有言実行の人 etc… 様々なイメージがあるが
いずれも私にとっては遠い存在だった。
岡本太郎のようになりたいと思ったことはないが、
自分とはかけ離れた存在としてずっと意識していた。
私にはとてつもなく強い意志を持った超人という印象があり、
そのとてつもなさに圧倒され、憧れるという対象にはならなかった。


持って生まれたものがちがうのだから憧れても仕方ない。
そういう自分の劣等意識がさらけ出されるようで恐かったのだろう。
弱者は近くに強い人間が来ることを嫌う。自分の無力さを思い知らされるから。
だから、自分と似たような人に近づこうとするのだが、それでは成長しない。
人間が成長するためには、『アイツにはちょっと敵わないけど、
俺も努力すればアイツぐらいにはなれるかも!』ぐらいの友人がいい。
似た者同士では成長しない。目標は少し高めの方がいいのだ。
少しというところがポイントだ。高すぎてはいけない。


しかし、岡本太郎は… 高すぎる。あまりにも!
そういう思いが長い間続き、岡本太郎を知ろうとはしなかった。
岡本太郎を知ることは、自分の無能さを自覚させられると思い込んでいた。
岡本太郎の作品は膨大だが、絵、彫刻、書の他に多くの言葉を残している。
これだけ多くの言葉を残した芸術家も珍しいが
その言葉を読もうとすると、これがなかなか読めない。
読むのがとても恐いのだ。


私も年齢的にだんだんポンコツになっている。
人間はポンコツになると、あまり激しいことをしたいとは思わない。
なにしろ疲れる! さらに疲労を回復するのに時間がかかる!
岡本太郎のように『全人間的に生きる!』などと宣言されてはたまらない。
どうぞご勝手にと思ってしまうのだ。
だからこの歳まで岡本太郎を知らないで過ごしてしまった。
これはものすごくもったいないことをしたと今になって後悔しているが、
まあ、知ろうとしなかったのだから自己責任である。



岡本太郎とはどういう人間なのか?
正直、今まで知ろうと努力して来なかったのでわからない。
手掛かりとなるのは、岡本太郎が残した作品だけ。
今回読んだのは、岡本太郎の言葉による作品群だ。
その言葉と恐る恐る会話してみたのだが…


どんな色だって、色自体に良い色も悪い色もありはしない。
自分の本当に好きな色調を、平気で、
自信を持って生活に押し出すと、これが輝いてくる。


ここで言う『色』を『人間』に置き換えてみると、
人間自体に良い悪いはないと読み取れる。
いつも自分らしくあれ! と言っているようだ。
でもね、太郎さん。それが出来ないから多くの凡人は悩むのですよ。

『平気で』とか『自信を持って』ということが、なかなか出来ないのです。
平気で自信を持って行動するとどうなるのだろう?
よほどの人物でない限り、世間の笑い者になるんじゃないかと。

平気で自信を持って自分を打ち出しても、世間はそう簡単に評価してくれない。
そういうことの繰り返しで、人間は自信を失っていくのだ。


自分の思ったことを純粋につらぬき、押し通していく以外にどうしようもない。
そういう運命を決意する。

だから、そういう決意はできないよ。
辛い運命を避けようとするのが凡人なのだから!


ぼくは言いたい。人に好かれようと思うな。

ぐっ! アンタねえ…


誤解するなら、してみろ!
誤解こそ運命の飾りだと思って、己をつらぬいて生きてみればいいんだ。

そんな飾りはいらん。辛いだけだと思う。


生きることは寂しい。おもしろいじゃないか。
ならばおれはやってやろうと思えば、自然と生きがいが湧いてくる。
そういうふうに発想を変えてみたらどうだい。

岡本太郎は、人間の生きる世界は絶望的だと断言する。救いがないと。
しかし、だからこそこの世界は面白いと言うのだ。
この発想が実に岡本太郎的で魅力的なのだが、
救いがないからこそ面白いではなく、辛いなぁと感じるのが凡人だ。
絶望を楽しむことなどできない相談である。

幸福というのは、何の不満もない状態のことで、それではつまらない。
世間に認められるということも同じことで、
受け入れられたものに『生』はないと太郎さんは言うのだ。
満たされてしまった人間は何も生み出せない。
現状を打開していくのは、常に不満(不幸)な状態にある者だ。
絶望的な状況を逆手に取って自分を活かすと太郎さんは言うのだが…
これもなかなか凡人にはできない芸当である。


自分は未熟だから、と消極的になってしまったら、
未熟である意味がなくなってしまうじゃないか。
成功者よりも成功しない人間のほうがはるかに充実していける。
ほんとうに生きるとは、自分は未熟なんだという前提のもとに生きること。
それを忘れちゃいけない。人間はだれもが未熟なんだ。

この世界は純粋なものと不純なものの対立で成り立っている。
岡本太郎はそう考えていた。そして自分は純粋であろうと決意したのだ。
こういう決意は誰でも青春時代にするものだが続かない。
よほどの精神力がない限り青春の志を貫くのは難しい。
そういう純粋な生き方を世間が応援してくれれば張り合いもあろうが
現実は逆である。純粋に生きようとすればするほど酷い目に合う。
世の中とは、そういうものだ。


多くの人がこの不純な壁の前で挫折する。乗り越えるのは一握り。
天才とか偉人と呼ばれる人たちがそれだろうが、
天才や偉人は特殊な存在で、特殊なものは凡人の手本にはならない。

出来る人間が出来ない人間に『俺のようにやってみろ!』と言うのは傲慢なのだ。
成功者の書いた本やセミナーが役に立たないのはそういう理由だろう。
それで成功できるなら、この世は成功者だらけになるはず。
成功者がそのノウハウを商品にして売り、成功者がその利益を得る。
そういう循環の中に取り込まれるのはご免だ。
しかし、藁をもつかむ気持ちで成功者に群がる人間を批判は出来ない。

自分は未熟なんだという前提のもとに生きると言われても、
未熟なために惨めな思いをするのはご免だと凡人は思うのだ。
人間はだれもが未熟なんだと未熟者が言えばバカにされるだけだろう。


純粋に自己を貫き通した岡本太郎に『俺のように生きてみろ!』と言われても
凡人はその入り口で、すでに気持ちが萎えてしまう。
太郎さん、それは無理ですよと。
自分の不甲斐なさに落ち込んでいると『それが甘いのだ!』と一喝される。
それでは凡人は岡本太郎のようには生きられない。無理だ!



岡本太郎は、人間はスジを通さねばならないと言い続けた。
生きるスジである。太郎さん、スジってなんですか?


自信のあるなしにかかわらず、そういうことを乗り越えて生きる。
それがスジだ。

自信があればともかく、
自信のない人間がそういうことを乗り越えるのは無理じゃないかと… 


自分が置かれた状況は不当だし、
それに対して戦わなければならないと思っている。
だからこそ喜びを感じるんだ。

自分が不当に扱われていると感じている人は意外に多いが、
戦わなければと思っても戦う術を知らず、戦ってもさらに負けが込む。
それが様々な精神疾患の原因になり、病んだ社会が出来上がる。
凡人には不当な状況と戦うことに喜びを感じる余裕も強さもないのだ。
やはり岡本太郎も雲の上の人なのだろうか?
今の私に『逆境こそ我が生きがい』と豪語する気概はない!

多くの人間が逆境を乗り越えられずに苦しむ。
占い、心理カウンセラー、宗教がそこにつけ込んでくる。
そういう循環から抜け出す強さをどう手にすればいい?
知りたいのはそこなのだ。
弱い人間は、どうすれば強くなれるのか?
能力の劣る人間は、どうやって優れた能力を手に入れればいいのか?
こういうことは、実は誰も教えてくれない。学校では特に!
というより、そんな方法があれば誰もが成功者になれる。

では、人一倍努力すればどうだろう?
努力で身につくものには限りがあり、満足する結果が得られる保証はない。
ダメな奴はダメなまま。弱い者は弱いまま人生を生きるしかない。
そういう非力な人々を救う方法はない。
だからこの世界は、一握りの優秀な人間以外には絶望的な場所なのである。
そこで太郎さんはこう言うのだ。


バカであろうと、非力であろうと、それが自分だ、
そういう自分全体に責任を持って、堂々と押し出す。それがプライドだ。

言わんとすることはわかるけど… まだハードルが高い。
『堂々と押し出す』というのが、そもそも無理だ。
もう少しハードルを下げてほしい。


ふりかかってくる災いは、恋人を抱き入れるように受ける。
それが人間のノーブレス(高貴さ)だ。

ノーブレスは高い! そもそも私にノーブレスなどの持ち合わせはない!
もっと下げてほしい!


こんなに弱い、なら弱いまま、ありのままで進めば、
逆に勇気が出てくるじゃないか。

勇気… 出るかな? ありのままがすでに辛い。
ありのまま進むというのもシンドイと思うのだが…


もし自分がヘマだったら ”ああ、おれはヘマだな” と思えばいい。
もし弱い人間だったら ”ああ弱いんだな” でいいじゃないか。

いいじゃないかって… やだよ!
ヘマで弱いって、真っ先に利用されるだろうが!


百メートルを十秒で走る人間はすばらしい。
しかし、たとえ一分かかったって、力のかぎり駆ける豊かさ。
自分より先に行くものは、「あいつは足が速いな」と思えばいいのだ。
それをどうして遅いものは走らない、と決めてしまっているのだろう。

そらぁ、走って遅ければバカにされるからですよ。
だから敢えて走らないという選択肢を残すのが弱者なのだ。文句あるか!


むなしい、どうにもならない中にいて、弱気になって逃げようとしたら、
絶対に状況に負けてしまう。逆に、挑むのだ。

高い高い! 挑むのは高いって! もっと下げて!


女は生まれつきスジをつらぬく。男よりずっとしっかりしているよ。

いや、太郎さん、そういう話じゃなくて…


ぼくは男女同権ではなくて、男女一体だと言いたい。
異質だからこそ、互いにひきあい、与え合う。
矛盾をぶつけ合いながら、一体なんだ。

男女一体って… なんかいいですけどね♪


自分で、いまやれるだけのことをやればそれでいい、と覚悟を決めるんだよ。
あとはなんとかなるさ、とひらきなおって、平気でやればいい。

そんな無責任な…


自分を守ろうなんて思わないで、
かまわないからほんとうのことをドンドンしゃべろうと決心してごらん。

そんなことしたら、嫌われるがな…


ぼくは言いたい。人に好かれようと思うな。

それはさっき聞きました!


むしろ純粋であればあるほど、この世界では敗れざるを得ないのだ。
だが信念のためには、たとえ敗れるとわかっていても、
あえて行う、己をつらぬくという、
そういう精神の高貴さがなくて、なにが人間か、とぼくは言いたい。

勇ましい… 勇ましすぎてついていけない!


敗れ、埋もれてしまった多くの人たち、
そして見えないところで、平気で、
人間の誇りの支えになっている人をこそ讃えたい。

アンタ、ええ人やなぁ…
埋もれてしまったて、わてのことやん。


自己嫌悪なんて、いい加減なところで自分を甘やかしていないで、
もっと徹底的に自分と戦ってみよう。

だから、それが出来ません!



やはり、岡本太郎は高すぎる、あまりにも。
まぁ、高いからこそ歴史にその名を残したわけであるが。
この本には岡本太郎の言葉がコンパクトにまとめられている。
そして、そのほとんどの言葉に私はついて行けない。
にもかかわらず、ホッとするものがあるから不思議だ。
岡本太郎の言葉を要約すると『自分を大切に』と読めるからだ。
どういう自分になるのが幸福かではなく、有りのままがいいのだと。
その有りのままの自分に苦しめられていたとしても、自分に責任を持て!と。


私の年齢になると病気と無縁では生きられない。
誰だってなりたくて病気になる人はいないが、なるものはなるのだ。
命に関わらなくても病気と名の付くもので楽しいものはない。
だから病気になる前の若かった頃に戻りたいと思う。
しかし、それは出来ない相談である。ではどうすればいいかと言えば、
病気とうまく付き合って行くしかないのである。
岡本太郎の言葉を借りれば…

もし自分が病気だったら ”ああ、おれは病気だな” と思えばいい。
”ああ病気なんだな” でいいじゃないか。

やだよ。助けてほしい!
でも、有りのままの自分であるということはそういうことだろう。
治る病気なら直す努力をする。
治らないなら ”ああ病気なんだな” と思うしかない。
しかし、病気になったからといって人生の終りではない。
健康だった頃と同じようには出来ないが出来ることはあるのだ。


走れなくても歩ける。遅くても前に進める。これは喜びである。
健康体が自分だと決めつけてしまうと、そうでない自分を受け入れられない。
そこに捕らわれると毎日の生活が辛くなるが、
有りのままの自分を受け入れることで、少し希望が湧くことは確かである。


弱くヘマな自分など誰でも嫌である。認めたくないのだ。
岡本太郎はそういう自分と戦えと言う。
戦うというのは、ヘマな自分に屈するなということだ。
『どうせ自分なんか』と思えば、自分に屈することになるが、
『にも拘らず』と思うことが人間のプライドらしい。
『ヘマにも拘らず』『弱いにも拘らず』『病気にも拘らず』
プライドを持てという岡本太郎の言葉は、そういうことなのだろう。


弱い人間が強く、ヘマな人間が優秀になることで幸福になれるかもしれないが、
弱いままヘマなままでも人間は幸福になれると岡本太郎は言うのだ。
成功が幸福で失敗が不幸というのは思い込みに過ぎない。
幸不幸にとらわれない生き方がいい。
岡本太郎は自分を成功した人間とは思ってなかったようだ。
成功は絶望に等しいと言っている。
だから、そういう人間の持つ基準を意味のないものと切り捨てたのだろう。


順番なんて、人間の価値とはなんの関係もないんだ。

岡本太郎はこう言っているが、
オリンピックの金メダルなんかどうなるんだろうと凡人の私は思う。
参加することに意義があるという言葉を最近は全く聞かない。
参加選手はみな金メダルが欲しい!と口に出して言う。
応援団も金メダルを取ってほしい!とばかり要求する。
マスコミも金メダルを期待しましょう! と煽る。

現実は順位が上の方が見栄えがいいし、収入も増えるのである。
ただそれが幸福感に通じるかどうかは、実はわからない。
われわれ凡人は、順位なんて! と言いつつ、順位に振り回される。
ほとんどの人は、順位の真ん中辺りから下の方に位置している。
『俺は上の方だ!』と豪語する奴に限って下にいる。かなり下の方だ。
そして順位の上の方を見て憧れるのだ。
憧れた世界がどういう世界かは経験してみないとわからないが。


岡本太郎はむしろそういうことに無関心な生き方を提案しているのだ。
そこがとてもユニークである。捕らわれないという自由がある。
自由かぁ… ええなぁ~♪

やはり、われわれ凡人には無理だ。岡本太郎にはなれない。
まぁ、なれなくてもいい。参考にすれば十分である。



今回初めて岡本太郎の言葉と向き合ってみて得たことがある。
それは  ”成功しない人生の方がより人間的なんだ” という太郎さんの言葉だ。
多くの人間は成功しない人生を送る。それがノーマルなんだと。
これは負け惜しみではなく真実だろう。
むしろ成功する人生の方が異質なのだと納得できる。
さらに成功しないことが即不幸を意味しないということも真実だろう。
安倍総理トランプ大統領も幸せそうに見えないもの。


だからどんな自分であっても自尊心を持てるということだ。
この自尊心は他人と比べることができない自分だけのものである。
この自分だけのものを大切にするというだけで少し心が楽になれる。


”もし弱い人間だったら ”ああ弱いんだな” でいいじゃないか。
という岡本太郎の言葉は、
今流行りの言葉で言えば『他人と比べない』ということだ。
どんなに憧れても『他人』にはなれないのだから、自分と付き合うしかない。

太郎さんは、この世界には膨大な数の ”岡本太郎” がいて、
それは自分でやろうと決意したすべての人のことだと言った。
とても勇気をもらえる言葉ではあるけれど、まぁ無理だよ。
岡本太郎にはなれない。なれないが自分らしく生きることならできそうだ。
そう思わせる優しさが太郎さんの言葉にはあると思う。


だれがなんと言おうと、三流だろうが五流だろうが、
自分のいいと思うものはいい、そういう態度をつらぬかなければ、
”ほんもの”なんかわかりゃしないよ。
一流だから知りたい、好きになりたいなんてさもしい根性をもたずに、
自分のほんとうに感動する人間を探し、つかまえるんだ。
その発見をポイントに世の中全体にその価値を認めさせるように、
キミ自身、力を尽くせばいい。そうすると世界が変わってくるよ。


たとえマスコミに知られない無名の人でも、
自分をつらぬいている人がいたら、その人を見つけてつきあうことだ。


むしろ世に認められてない人のなかに、
ほんとうの意味で素晴らしい人間が存在するものだ。
そういう人間を探し出すことができたら、
キミ自身が高度な感受性をもった一流人である証拠だ。

 

一流人は無理としても
人間は高度な感受性とプライドを持たなアカンのだ。

 


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