「善人」のやめ方
★★★☆☆ ちょっと面白い視点がある♪
宗教評論家ひろさちやさんによる生き方指南書。
主に仏教とイギリスの作家サマセット・モームから学んだ人生訓が書かれている。
著者によると、仏教とモームの主張には共通点があり、
それは『人生に意味はない』ということだ。
『意味はない』とは、無意味ということではなく、
我々が普段考えてしまう『立派な人生』(目指すべき人生)は
存在しないということらしい。
♣︎
人生の途上で我々が自分の人生を虚しいとか失敗だと考えてしまうのは、
お手本となる『立派な人生』が存在するという思い込みによる。
その思い込みが我々を悩ませ苦しませる原因らしい。
もともと人生にはお手本はない。各自が好きなように生きればいい。
法に触れない限りそれは自由なのだと。
他人から見た『幸福な人生』と本人が感じるそれとは大きく違うだろう。
大事なのは自分がどう感じ、どう思うかなのだ。
これはよくわかる。
幸不幸(成功失敗)を決めるのは自分だから。
幸福(成功)だと思えば幸福(成功)で、
不幸(失敗)と思えば不幸(失敗)になる。
自分がそう感じているのだからそうなのだ。
我々人間には、実に様々な思い込みや決めつけがあり、
それを要求してくるのが『世間』というもの。
我々は無条件に『世間の常識』を信じ、それに自分を合わせようとする。
あまりに盲目的に『世間』に合わせてしまうと
「ああ、こんなはずじゃなかったのに…」ということになりかねない。
♣︎ ♣︎
本のタイトルにある『善人』とは、
宗教で言う善人悪人という概念で、我々が考えるものとは違う。
『善』とは『仏』のことで、
それ以外は(人間は全て)『悪人』となる。
つまり人間である以上『善人』とは言わないらしい。
まぁせいぜい『菩薩(仏に向かって歩き続ける者)』ぐらいしかいない。
だから「自分は善人です」なんて言う奴は要注意。偽善者だと。
まぁすごいですね、宗教ってやつは♪
仏様以外は全て悪人って言い切っちゃうんだから。
うん。なかなか言えない。
仏様以外は皆悪人なんだし、
仏になろうと精進しても人間は仏様にはなれない。
モーム氏の長年の人間観察でも、
首尾一貫性のある人間など見たことがないと言う。
どう努力しても完全な人間にはなれないのだから、
不完全な自分を恥じることなく堂々と
気楽に楽しんで好きなように生きればそれでいいという事になる。
そりゃあね、その通りだと思う。
ただ、普段から仏になろうと精進する人なんかいないだろうし、
不完全のままでいいと言われても、
「ハイ、さようですか♪」と好きなように生きられる人は少ないはず。
特に現役の働く世代などは、好き勝手に生きていたら
即、会社クビでしょうから。
だからこの本に書かれているように生きるのはほぼ無理だと思う。
かなり浮世離れした内容と受け取れなくもない。
ではこの本は読むに値しないかというとそうでもない。
私が読んで良かったと思う点が2つあった。
一つは『因縁(原因と条件)』についての記述だ。
仏教では発芽する種が『因』で、
そのタネを育てる条件である土、水、温度を『縁』と例える。
この縁起の理論で考えると、善人と呼ばれる人が善人でいられるのは、
そういう条件に恵まれているからで、本人の意思によるものではないとなる。
だから自惚れてはいけないよと。
条件が変われば悪いことをしてしまう可能性は常にあることを忘れるなと。
こんなの科学では絶対に証明できないけど、ああなるほど♪ って思うわけ。
「なぁお前~ よう聞け~ お前が善人でいられるのはなぁ~
お前の心が善やからちゃうねん。たまたまや。
それ忘れたらあかんよ~!」て、仏様は言いますなぁ。
続けて仏様は言いますよ。
「なぁ、そこの働き者よ~ お前は自分が勤労や思とるやろがちゃうで~!
お前働き者ちゃうねん。たまたま働く条件に恵まれとるだけや。
条件が変われば、怠け者になるやもしれん~ それ忘れたらあかんよ~!」
何で仏様がインチキ関西弁を話すのかはさて置いて、
この縁起の考え方はね、なんかいいなぁと♪
条件に恵まれた人が才能を伸ばせることは証明されているようだ。
すぐれた才能を持っていても、条件(運)に恵まれなければ成功しない。
逆に、並の才能の持ち主でも、条件(運)に恵まれれば成功する。
そういう調査をした人がいるらしい。YouTube動画の情報だけど♪
でもこれはそうだろうなと思う。
その意味でも人生は不公平だったりするのだ。
成功の条件が必ずしも優れた才能だけではないという事実。
残酷だけど、これ本当だと思う。
だから今成功している人は自惚れてはいけない。
あんたの実力ちゃうねん。良い因縁に恵まれただけや。
それ忘れたらアカン!!
♣︎ ♣︎ ♣︎
二つ目は、優等生と劣等生についての記述だ。
そもそもこの世には何で優等生と劣等生がいるのか?
普通生でええやん。何で優劣つけますねんと。
こういうことにも仏教はいいこと言いますよ。
私のような劣等生は感動しましたから♪
仏教は言います。それは役割分担だと。
つまりね、優等生と劣等生の役割がこの世には必要らしいのだ。
特に劣等生の役割は、一握りの優等生を作るために必要不可欠だと。
劣等生がいなければ優等生は存在できないから。
この世が全てプラスとマイナスで成り立っている限り、
プラスだけではアカン。マイナスも必要やと。
そのマイナスの役割分担が劣等生なのだと。
もう仏教はね、こういうことをしゃあしゃあと言いますね。すごいよ。
私のような劣等生は生まれた時から損な役割与えられてたまらんですよ。
もっといい配役にしてくれよと。
しかし仏様は私の悲痛な訴えにひるむことなくこう言います。
なぁお前~ 辛いやろなぁ~
(そら辛いよ!)
我慢しておくれ~
(我慢出来ん!)
優等生を作るためには、お前が必要やねん
(他に頼めんのかい!)
アンタがええねん。アンタでなきゃならんのや~
(だから、他にもおるやろて!)
お前は劣等生のまま、明るくのびのびと生きてほしい~
(そら単なるアホや~!)
私が劣等生としてこの世に生まれたのはそういうわけらしい。
おい誰だ、人が真剣に書いてるのに笑いながら読んでる奴は。
はは~ん、優等生だな♪
一方で仏様はこうも言います。
なぁ~ そこの優等生よ。お前、劣等生をバカにしたらアカンがな~
可哀想思わんのかい~?
(思わんね♪)
そんな冷たいこと言うたらアカンがな~
(何でよ?)
お前が優等生なのは何でか知っとるか~
(そら実力や!)
アホ、実力ちゃうねん。役割分担や!
(何の役割やねん?)
ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)て知っとるか~?
(知らん!)
ほんまアホやなぁ~ 優れた能力を持つ者はなぁ~
その力を社会に還元せなアカン言うこっちゃ~
(そんなんイヤや、めんどいがな)
めんどい言うたらアカン! 還元しなさい!
(うるせぇ!)
あっ、仏に喧嘩売りますの?
(ふん!)
ふんて何やねん。仏様を鼻で笑たらアカンがな
(仏なんかおらん!)
何て?
(仏などおらん! 非科学的や! うざいねん! 消えてくれ!)
あっ、仏様になんちゅうことを!
(何度でも言うたるわい、ボケ!)
テメェ、仏を侮辱してタダじゃすまねえぞ! しばいたろかこのガキ~!
(ゲッ!)
こういう優等生は死んだ方がいいと(そんなことは書いてない!)
♣︎ ♣︎ ♣︎ ♣︎
人間は肉体だけでなく、その本体は魂だと言います。
この世はその魂が修行をする場所であると。
本当かどうかわからないけど、私はこういう考え方が好きである。
この考え方によると、
優等生と劣等生にもこの世での修行目的があるはずだ。
では、優等生の修行とは何だろう?
もう優秀なんだから、修行なんかせんでもええよ! ということだろうか?
『高貴なる者の義務』という考えに従えば、その優秀な力を還元する必要がある。
還元する相手はやはり力の弱い者(劣等生)ではないだろうか。
大きな力を持つ者にはその義務があり、そのために力が与えられている。
こう考えると筋が通る。非科学的だけど♪
一方、劣等生の修行は優等生から助けてもらうことではないはずだ。
それではあまりにも受け身すぎる。
一つは、『弱者の論理』を振りかざさないことだろう。
弱いのだから助けてもらって当然と主張するだけでは修行にならない。
この点では、弱者も強者も求められるのは謙虚な姿勢だ。
強いから弱いものを支配して当然。
弱いから助けてもらって当然。
この考え方は、謙虚さからは程遠い。
弱者の修行の2つ目は、
大きなリスクを負って一生を過ごさねばならないという意味だ。
本当に弱ければそのリスクに耐えられないと思う。
ということは、
劣等生として負の重荷を背負って生まれてくる魂は、
その重荷に耐え得る力を持っている。理屈ではそうなる。
一生をかけてそれに耐えることが修行になるのかも?
弱者ほど強靭な魂を持っているということは科学では証明できない。
これはもう、そう信じるしかない。宗教抜きにして。
強者の修行は、弱者にどう接するかで決まり、
弱者の修行は、強者にどう接するかで決まるのだろう。
魂が生まれ変わりを繰り返し、自らを磨くとすれば、
弱者と強者の魂は時に入れ替わることもあるだろう。
「アンタこの前強かった(弱かった)んだから、
今生は弱く(強く)生まれてね」と。
つまり両者は本来一つのものとも考えられる。
前回書いた池田清彦教授の著書『ナマケモノに意義がある』という本の中に、
働きアリと怠け者アリが、条件が変わると入れ替わるという記述がある。
これとなんか似ているなぁ~と♪
人間界でも働き者と怠け者は時に入れ替わることがある。
サマセット・モーム曰く。「首尾一貫性のある人間など見たことがない」
生物は常にどちらかに転ぶ可能性があり、
どちらに転ぶかは因縁によって左右される。
自分の意思だけではないのかもしれない。
ただ、ひろさちやさんがこの本で述べる怠け者は私には受け入れ難い。
怠け者がより怠け者になる。それが個性を伸ばすことです。(P.184)
「俺が怠け者であってなぜいけないんだ。文句があるなら仏に言ってくれ!」
そう思っていればいいんです。なにも世間に遠慮する必要はありません。(P.191)
う~ん、どうなんだろうこれ?
まぁ、何らかの因縁によってたまたま怠け者になっているだけで、
自分のせいじゃないと言うのでしょうが… なんかしっくりこないですね。
ひろさちやさんは皮肉屋なので、あえてこう書くのでしょうが…
う~んですね。
弱者と強者、劣等生と優等生、怠け者と働き者。
これらは役割分担であり、因縁により繋がっている。
さらに魂のレベルでは一つの魂の今生での修行の形なのかもしれない。
生物学者と宗教評論家という異なるジャンルの書き手が、
人間(生物)というものを共に『怠け者』という言葉で表しているところが、
偶然なんだけど面白いなぁ~♪ と思うのだ。
働くことと怠けること、強いことと弱いこと、優秀なことと劣ること。
これらは全て、人間の変化形であり、どちらに転ぶかわからない。
今生で働き者でも、前世では怠け者だったかもしれない。
今生で弱くても、前世では強かったかもしれず、
今生で優秀でも、前世では劣っていたかもしれない。
人間は時を超え、首尾一貫性などなく、
どちらにでもなり得る存在だと思うと、
少しは謙虚な気持ちになれるのではないでしょうか?
(そんなんなれるかい!)
たまたまですが、続けて面白い本を読めて楽しかったです♪
さてあなたはどちらでしょうか?
優等生でしょうか、それとも…
受け取り方によっては、
ちょっと面白い本なのでお勧めいたします。
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