モダン・タイムス
1936年 アメリカ/チャールズ・チャップリン監督作品
満足度 ★★★★★ ただただ感心するのみ♪
もしチャップリンが、この映画を最後に引退していたら、
チャップリンは、映画史上最も素晴らしい伝説の一つになっただろう。
なぜかと言えば、これがトーキーに対する最後の抵抗であり、
チャップリンのパントマイム芸の集大成だからだ。
誰にとっても引退は辛い。
特に世間の賞賛を浴びた人ほど辛いだろう。
しかし、誰にでも引退の時が来る。
だから、いつ、どういう形で引退するかに、その人の生き様が出るのだ。
チャップリンは余力を残して引退することはなかった。
限界を感じて身を引くこともなかった。
そして、サイレントとトーキーの2つの時代を映画人として生き抜いた。
♠︎
『モダン・タイムス』は、無声映画に誇りを持ち続けたチャップリンの
トーキーに対する最後のレジスタンス映画である。
前作の『街の灯』では、音声の使い方が限定されている。
特にオープニングのセリフは、ワザと回転数を早め、意味不明にするという
面白い抵抗を試みた。それ以外は無声映画だった。
この『モダン・タイムス』では、時代はさらにトーキーへと移り、
時代に敏感なチャップリンは、もはやこれまでと腹をくくったのだろう。
もはや、音声に手を加えるという小細工はしていない。
冒頭から、堂々と音楽とセリフを入れている。
しかし、音声によるセリフはここだけ。
他のセリフは『文字』で表示する無声映画形式である。
もちろん、チャップリンは喋らない。主役なのに!
音をギャグに使うシーンはある。
しかしチャップリンは喋らないのである。トーキーなのに!
そのチャップリンが、ラスト近くでどうしても喋る…
というより、歌わざるを得ない状況に追い込まれる。
ここが実に可笑しく、うまい脚本である♪
歌わなければいけないのに、肝心の歌詞を…
さあどうするチャップリン! 絶体絶命の大ピンチ!
ここで閃いたアイデアが、トーキーへの最後の抵抗となった!
歌うよ。歌いますよ。そんなにせかさなくても。
私の声が聴きたいならお聞かせします。だからどうぞお静かに。
なにしろ、時代はトーキーですからね♪
わかってますよ。歌います。
パントマイムで、そう説明したチャップリンは歌い出す♪
初めてチャップリンの声が聞けると、観客はワクワクしたことだろう。
しかしである。これがただの歌ではない。
声は確かにチャップリンのものである。
しかし、ただの歌ではないのだ。
ただではなく、有料の歌なのだ。(そんなボケは、ええから!)
この歌(ティティナ♪)と、あのラストシーンを最後に
『私はトーキーは絶対撮らない!』と宣言して、
チャップリンが映画界を引退していたら…
これはとてつもない伝説になっていたはずなのだ。
しかし、チャップリンは撮り続けた。
変容を繰り返し、コメディアンとしての衰えさえもギャグにして。
このチャップリンの生き様をどう捉えるかは、観る人によってちがう。
♠︎♠︎
『モダン・タイムス』以降は、チャップリン映画ではないと言う人がいる。
チャップリンは、最後まで映画人(芸術家)だったと言う人がいる。
初期から中期の作品が、チャップリンの本質だと言う人がいる。
その全てがチャップリンなのだろう。
チャップリンが残した全ての作品が、一人の天才の生きた証なのだ。
冒頭の工場のシーンは、何度観ても可笑しい♪
人間らしさとは何なのか? という問いに、
子どもでもわかる映像で答えた名シーンの連続である。
特に、歯車に巻き込まれるシーンのシンプルな美しさ!
機械に翻弄される人間の悲劇をとてもわかりやすく描いている。
ルネ・クレールの『自由を我等に(1931)』が下敷きにあるらしいが、
充分に消化しているので、チャップリンのオリジナルと言っていい♪
文明批判、風刺、皮肉という難しい言葉を知らない子どもにもわかる。
あんな風に働き続けて、歯車の一部になるのはいやだなぁ… と。
そのシンプルさが観ていて心地よい。
後半は、それまでのチャップリン芸の集大成的場面の連続。
新鮮味はないが、コメディアンの教科書的価値がある。
ここで引退しなかったチャップリン。
トーキーでは、本当の自分らしさは表現出来ないと知りつつ、
それでも最後まで創作者としての道を選んだチャップリンである。
この作品は、一見の価値がある。
★ネット上の『モダンタイムス』の画像を流用し、加工させて戴きしました 感謝!★
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