岩井田治行の『くまのアクセス上手♪』

興味を持った本と映画のレビューとイラストを描く♪

『鬼滅の刃 絵が下手』でアクセスが増えた件♪

 

 

何だか騒がれる『鬼滅の刃』の絵

吾峠呼世晴 集英社  ★★★ ストーリテーラーの才能♪

 

 

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生理的にジャンプマンガは肌に合わない私だが、

食わず嫌いはいけないと評判の『鬼滅の刃』1巻を買って読んだ。

結局、3巻まで買ったのだが、

3巻の3分の1ぐらいでギブアップ。

せっかく読んだのだから感想でも書こうとパソコンに向かうも…

何~にも書くことがない。

まあ、無理に書くこともないのだが、

ふと思ったのがこのマンガの『絵』についてだ。

 

頭に浮かんだのは『下手だなぁ~』というフレーズで、

この『下手』という言葉が誘い水となり、次々に言葉が溢れ出した。

 

その頃ちょうど『荒木飛呂彦の漫画術』(集英社新書)という本を

読んだ直後だったので、それと絡めて書こうと思ったのである。

 

誰それのマンガの絵が下手だという記事は珍しくもないし、
そんな記事に食いつく人は、まぁいないだろうと思った。

そもそも私のブログは筋金入りの僻地ブログである。

訪問者は日に5~6人。そのうちの一人は自分だ♪

20人もアクセスがあるとカウンターが壊れたか、

はたまた、ずいぶん暇な人がいるなぁと思うのである。

ところがそんな私のブログに異変が起こった!

 

吾峠氏の絵が下手だという私の記事にアクセスが集中し始めたのである。

あらやだ! どういうこと?

 

 

まず初めは、ジャンプでの連載が終了したときだった。

ジャンプに興味のない私は、『鬼滅の刃』の連載終了を知らなかった。

ネットで調べて「ああなるほど、その影響なのね」と納得した。

この現象がしばらく続き、やがて元の僻地ブログに戻った。

アクセスが減り一安心である。(安心すなよ、そこは打って出ろよ!)

 

ところが… である。

コロナではないが第2波が来た!

この第2波は第1波よりすごかった。

第1波でいつもの10倍ほどだったアクセスが、

一気に20倍に増えたぜ、驚いた!

 

これもTVニュースを観て理由がわかった。

鬼滅の刃』の劇場版アニメが異例の大ヒットらしいのだ。

アニメなんて全く知らなかった。興味ないから。

 

そして今でも『鬼滅の刃』の記事にアクセスが集中している。

ちなみにアクセスの2位は『カドケシ』の記事である。

これはわかる。

カドケシの使い方がわからない人がたくさんいるということだ。

私だって知らなかったもの。

 

閑話休題

 

あるマンガ家の絵が下手だという記事がなぜ多くの人の興味を惹くのか?

それがとても不思議だった。

だって、別に下手でもいいじゃないかと思うから。

だからネットで調べた。『吾峠 絵が下手』と。

で、驚いた!

135,000件がヒットした。こんなことがあるのか。

こんな暇な奴らがいるのか、この日本に!

 

他人の絵が下手であることに、これほど興味を示すなんておかしいだろと。

そういう私も『吾峠 絵が下手』と書いた。スマン。
しかし、わざわざ特定のマンガ家の絵が下手だなんてブログに書くのは、
私ぐらいだろうと思っていたので、本当に驚いた。

 

では、私はなぜ『吾峠 絵が下手』と書いたのか。

そう思ったんだよ、ごく普通にね。下手だなぁ~って。

正直に書くけど、そこに他意はないよ。

まぁちょっと文章を面白くしようという作為はあったと思う。

何しろ僻地ブログだもの、少し稼ごうとは思ったさ、アクセスを!

 

でもね、まさか絵が下手であるという記事が

私の僻地ブログのアクセスを20倍に増やすとは思わなんだ、

生死にかかわることじゃあるまいに、

誰かの絵が『下手である』ことがそれほど重要な案件とは思えない。

ただ、ごひいきのマンガ家を『下手』呼ばわりされたら、ファンは怒るだろう。

それでこそファンだ。

 

「試しに読んでみた『鬼滅の刃』という少年漫画という記事は、

それほど力を込めて書いたものではない。

先にも書いたが、せっかく読んだのだからなんか書こう! ぐらいの

軽~い気持ちで書いたのだ。

ことさら下手であることを強調して吾峠氏を貶めようという悪意はない。

ただ下手だなぁ~と思ったから(もうええよ!)

 

大体ね、

他人の絵が下手だということを延々と書いて喜ぶ奴は、

明らかにどこかおかしいのだ(そらアンタや!)

ただ悪口というのは楽しいもの。

他人のあら探しは簡単で、なおかつ面白いのだが、

本人は悪意はなくとも、それで傷つく人がいることを考えるべきだ。

それが人間の想像力というものである。

 

マンガの神様手塚御大がいみじくもおっしゃった。

 

想像力は、大きな夢につながるものですが、(中略)

自分以外の人の痛みを感じとるには、想像力が必要なのです。

手塚治虫『ガラスの地球を救え』P.168(光文社刊)

 

私は事あるごとにこの言葉を思い出し、自らの戒めとしている。

だから思った。これは補足する必要があるかもと。
ただ私も忙しいので、サラサラっとは書けない。
適当に書くのは簡単だが、それでは補足の意味がない。
思案するうちに時間だけが過ぎ、今日に至った。

前回の記事を単に『吾峠呼世晴氏の悪口』と思った人がいると思う。
まぁ、意図的にそう書いたところがあるので弁解はしないが、
一応、前回の記事の主旨をここに記す。
私はこういうことを書いたのだ。

吾峠呼世晴氏の絵は、抜群に上手くはないが、
鬼滅の刃』の魅力は絵ではなく、その物語にある。
吾峠氏の才能は『物語作家』としてのもので『画家』ではない。
吾峠氏の作風は、ジャンプマンガには珍しい『暖かさ、優しさ』に満ちている。
多くのファンをつかんだ理由はそこにあるのだろう。
たとえ絵が下手の範疇に入るとしても
それが『鬼滅の刃』の作品的価値を下げるほどのものではない。
絵の上手い下手より、誰の絵にも似ていないオリジナル性があり、

上手さより、そちらの方が大事ではないか。

要約すればそういうことを面白おかしく私は書いたのだ。
この面白おかしい部分が『皮肉混じり』なので、
ただの悪口に読めなくもない。

ただの悪口と受け取った人がいたとすれば、それは私の責任だが、

もう少し丁寧に他人の文章を読み解いて欲しいとも思う。

ただの悪口をこんなに長々と書くほど私は暇ではない。
時間を割いてでも書かずにいられない何かを喚起されたのは事実で、
鬼滅の刃』にはそういう影響力があるということも伝えたかった。

吾峠氏の絵が下手であると書いたのは事実だが、
だから作者にも作品にも『価値がない』とは一言も書いていない。
創作物の価値は、上手い下手だけでは計れない奥深さがある。
そういうことを感じて欲しかったのだ。

 

 

♥♥

ところが、

吾峠呼世晴氏の絵が下手だと思う人は私だけではないらしい。

何しろ『吾峠 絵が下手』で13万ヒットなのだから。
これにはマジで驚いた。

 

マンガは絵と文字(物語)のコラボレーションである。

画家と作家を同時にこなさねばならない。

こういう職業も珍しいかもしれない。

 

しかし、天は人に二物を与えずという。

大体は、どちらかの能力を多く授かっているのだが、

マンガ家においては、2つを授からねばならない。こらシンドイぜ。

しかし稀に二物を持つ人がいる。すご~く稀にである。

 

マンガ家には2つの特性がある。作家性と画家性である。

大体は、どちらかが得意な人が多い。

絵もお話も両方こなすが、

お話作りが上手い人と絵が上手い人である。

 

一概には言えないが、作家性の強いマンガ家の描く物語は、

小説や映画に置き換えることができそうだ。

一方、画家性の強いマンガ家の創り出す物語は、

他のジャンルに置き換えられないものを多く含むように見える。

それは『マンガ絵的な物語』である。

そのマンガ家の『絵』だからこそ面白いといえる物語で、

小説や映画に置き換えられない。

もしくは、置き換えると魅力が半減する。

 

世界でも珍しい独特の物語世界を構築した手塚マンガの映像化が

ことごとく失敗、または様にならないのはそのためかもしれない。

そして晩年のリアルな絵柄より、

あの流線型の丸みのある絵柄こそが『手塚マンガ絵』なのだと思う。

本来の手塚キャラは、マンガの中にしか存在しないもので、

生身の役者が演じることは難しいのだろう。

 

その意味で、

テレビドラマ化しやすいマンガはストーリーに特化したものといえる。

マンガはその『絵』で、すでにビジュアル表現をしているわけで、

それを役者が演じて違和感がないというのは、

原作マンガに必要なのは『物語』であり『絵』は不要ともいえる。

最もマンガらしい物語とは、
マンガ家の絵で語るとき、その面白さを発揮するものだと思う。

 

3巻の途中までしか読んでないので断言はできないが、

吾峠呼世晴氏は『作家性』にその才能があると思う。

つまり画家ではないのだ。

絵は付け足しというわけではないが、

どう見ても『絵が語る』作品には見えない。

 

鬼滅の刃』はアニメだけでなく、実写版も作れるだろう。

ストーリーテリング吾峠呼世晴氏の才能なのだと私は思う。

だから絵が下手でもいいかというと、そこは意見が分かれるのだろう。

 

そもそも絵が下手というだけでこれほど騒がれる御仁も珍しい。

上手くて騒がれるなら分かるが、下手でこんなに騒ぐか?

(騒いだのアンタや)

 

理由はあるのだろう。

普通に考えれば、大ヒットに対する嫉妬や妬みだ。

新人のくせに生意気だ! みたいな♪

 

もう一つは、

吾峠呼世晴氏に希望を託す人がたくさんいるのかもしれない。

マンガ家になりたいが、絵が下手で自信がない。でも諦めたくない。

そういう人にとって、絵が下手でもヒット作が描けるという希望だ。

私、絵が下手だけどマンガ家になりたい!

でも下手では相手にされないかも。でもなりたい!

そういう人にとって、

下手な絵でも異例の大ヒットというのは大きな希望かも。

プロは下手でもいいということではないが、

マンガ表現は『絵だけではない』ということだ。

多少絵が下手でもマンガ家になれると私は思う。

同じように、多少お話作りが下手でもなれると思う。

マンガにはそういう柔軟性があるだろう。

ただ、あくまで『多少』である。

 

なぜ絵が下手だということでこれほど騒ぐのか、考えられる最後の理由は、

(これは後で知ったのだが)アニメを先に観た人が多いということかも。

アニメ版は観ていないが、とても完成度が高いらしい。

アニメがこれだけ面白いなら原作を読んでみようと思ったファンが、

アニメと原作との落差に唖然としたのだ。

 

これが一番あり得る理由かもしれない。

『何だよこれ? がっかりだなぁ…』というわけだ。

 

しかしこれはよくあるファンのわがままである。

吾峠氏が『私の絵はアニメを超えてる!』と豪語したならともかく、

そういう事実はないらしいから。

 

ファンというのは、自分の思い通りにならないと文句を言うものだ。

右に行くと思った主人公が左に行く。

勝つと思っていたキャラが簡単に負ける。

予想に反する展開は、ファンを怒らせることがある。

 

たとえそれが作者の思いでも関係ない。

それはあり得ない! ふざけるな! というわけだ。

だから熱狂的なファンはありがたみ半分、怖さ半分なのだ。

S・キングの『ミザリー』がいい例だろう。

 

ちなみに『ワンパンマン 絵が下手』で検索すると、

244,000件。スゴイ! 吾峠呼世晴氏を抜いた!(あのね~)

 

ただ『ワンパンマン』の下手と『鬼滅の刃』の下手では何かが違う。

私思うに『ワンパンマン』は上手くなったら終わりだと思う。

ああいうスタイルであり、あれでいいのだ。

プロの漫画家がコラボをしているが、完成されすぎという感がある。

しかし流石にプロであり、商品的価値は素晴らしいものだ。

だが原作のONE氏の描く唯一無二の世界観には遠く及ばない。

つまり『ワンパンマン』は下手であることが武器なのである。

 

比べて『鬼滅の刃』には、

「その下手な絵、何とかならないの」というじれったさを感じる。

もう少し何とかなりそうなのにならない。限界? う~ん…

というイライラ感が募る絵なのかもしれない。

守ってやりたいというか、放っておけないというか、

何だろうね、この不思議な気持ち?

 

ワンパンマン』のスマッシュヒットに嫉妬する人っているのだろうか?

世界は広いからいるんだろうな、3人ぐらいは♪

でも大方はあんなものと諦めている(コラコラ!)

ONE氏の絵は下手だけど、なんか強いんですね。

どうだ文句あるか! って感じで。

 

でも吾峠氏の下手さはね、なんかね、守ってあげたいっていうかね…

僕が守ってあげるよ!っていうかね…

(なら、お前が守ったれよ、悪口書かずに!)

 

 

♥♥♥

さあ、ここから私は心を入れ替えて、吾峠呼世晴氏を守る!

守ってあげたい!


 

そもそも『絵が下手』とはどういうことなのか?

下手の定義というのはありそうで実はないかもしれない。

まず、何を描いたかわからない絵を下手と言う人は多い。

人間を描いて人間に見えない。犬を描いて犬に見えない。

こういう絵を見たとき、人は「下手だなぁ~」と言うのだろう。

この場合、下手と言うより『絵が描けない』と言う方が正確かも。

 

一番多いのはデッサンの狂いだと思う。

バランスが悪い絵、どこか不安定な絵、洗練されていない絵。

絵は描けるし、何を描いてあるかもわかるが心地よさがない。

これも『下手だなぁ~』と言われるに違いない。

つまり多くは、『形がうまく取れないこと』を下手というのだ。

音程をうまく取れない音痴という下手。

うまくリズムに乗れない踊り下手。

スポーツにおける運動音痴も同じだろう。

 

つまり、

何事も上手く出来ないと『下手』と言われてしまう。
上手なことが価値で、下手は価値なし。
世の中は、何かが『出来る』ということしか認めない。
『出来ない』というのは、恥ずかしいことなのだと。

 

勝ち組は認めるが負け組は認めないというのはそういうことだ。

負け組には敗者復活戦もさせないという薄っぺらな価値観では、

複雑で多面性のある人間を育てられない。

上手く出来る人から学ぶものって、実はあまりないですよ。

 

成功というのはごく一部の例外であり、失敗する方が多い。

だから失敗した人から学ぶ方が参考になると思う。

本来、上手く出来ないのがノーマルな人間じゃないのかなと。

上手く出来るというのは特別なんだと。

そして人間は、他より『出来る』という意味で、

『特別』である必要などないと思うのだ。

 

だから『何を描いたかわからない』というのも

見方を変えると別物になるかもしれない。

『人間を描いて人間に見えない』ってどういうことだろうと考えません?

こいつ絵が描けないなで終わりですかね?

私ならこう思う。

『人間を描いて人間に見えない』

じゃあ、それ何? 新種の生物?

 

これはね、ある意味スンゴイことかも。

ほとんどの人は、人間や犬というものを認識している。

ただ紙の上にそれを正確に再現できない。

これは技術がないということ。

技術がないなら何にも描けないはずなのに、

人間や犬に見えない『何か』を描いてしまうって、スゴくないですか?

それ何よ? なんて生物? どこから思いついたの?

って私なら聞くけど。

 

余談。

以前、講談社の女性編集者と仕事をしたときの話。

「岩井田さんにこういう感じでトラを数匹描いて欲しいんですけど、

私、全く絵が描けなくて、職場の同僚に笑われるんです」

と言って、直筆のラフスケッチを見せてくれました。

 

私その絵を見て驚いたのなんのって。

ざっとこんな感じのトラをお願いしますという

そのラフスケッチに描かれていたトラがね、

明らかに新種の生物なんです。

 

もう何十年も前のことなので、そのラフは手元にないけど、

足が4本に尻尾があって眼があるにはあるんだけど、

なんかね、ニョロニョロっとして変な生き物が3匹描いてある。

彼女は恥ずかしそうに

「ねっ、私絵が下手でしょう? みんなに笑われるんです!」

と必死に言い訳するのだけど、私の眼はその絵に釘付けになった。

 

どうやったらこういう発想ができるのか。

大体、トラなのにアメーバーみたいにニョロニョロしてる。

絵が描けなくても、トラの姿は知ってるはずなのに

どう見ても新種の生物を3匹創り出してる。

 

その発想力。ある意味これは上手いのかなと。

誰にも描けない何かを創造するってスゴイことですからね。

 

そのとき上手下手って何だろうと、ショックを受けた。

仕事場に戻ってから、編集者の描いたトラの絵を見て模写したけど、

描けない! ニョロニョロのトラって描けないです。

どうしても普通のトラになっちゃう。

 

クリエイティブという意味において言えば、

普通のトラよりニョロニョロの方が独創的ではないだろうか?

ただこれは彼女が意図的に描いたものではなく、

絵が描けない人が何とか描こうとした結果であって、

こういう絵はユニークでも上手いとは言わないだろう。

 

 

♥♥♥♥

では、これらの上手い下手を吾峠呼世晴氏に当てはめてみる。

まず吾峠氏の絵は『何を描いたかわからない』絵ではない。

つまり『絵が描けない』わけではないのだ。

 

すると次の『デッサンの狂い』『洗練されていない』という辺りに

下手だと思われてしまう原因がありそうだ。

3巻の途中までしか読んでないので、後半の絵は見てないが、

おそらく丸ペンを使ってるだろうその絵は、

やはりちょっと『ひ弱』な感じがする。

特に背景においてそれは顕著で、素人っぽい荒さがあり、

趣味の同人誌レベルという印象なのだ。

 

ところが、デッサンの不安定さはあっても、

人物の感情表現(怒り、悲しみ、笑い、驚き)は伝わってくる。

マンガは1枚絵ではないから、

登場人物の表情や動きが読者に伝わるように描く。

どんなに稚拙な絵でも、それが描けていればマンガになり得る。

 

洗練さはなくとも、

物語を語るための最少限の表現はクリアしているわけで、

これでいいんじゃないかと思ったりする。

現に多くの読者を魅了しているのだから、

作者の思いは確実に読者に伝わっているのだ。

それ以上何をこのマンガ家に求めるのだ。

こういう描き手だと思えばいいじゃないかと思いたいが、

どうにも『下手だなぁ~』というじれったさを抑えられない。

 

私が途中で読むのをやめた理由はここら辺にあるかも。

 

ここでふと、じゃあ逆に上手い絵ってどんな絵だろうかと思うのだ。

下手の定義があるなら上手の定義もありそうだ。

しかしこれもよく考えるとありそうでないようにも思える。

そう、上手い絵ってどんな絵なのだろう?

 

よく言われるのが『本物そっくり』に描かれた絵である。

まるで写真のようにリアルに描かれている。

こういう絵を見ると多くの人は『上手~』なんて言うんじゃないかな。

でも本物そっくりに描けば上手いのだろうか。

それなら写真でいいんじゃないかと。

 

いや、写真そっくりに描く技術が上手いんだと。なるほど納得。

でもそういう絵を見て感動するかは見る人によるでしょうね。

「本物みたいだね、ふ~ん」で感動しない人もいそうだけど。

一方、デッサンなんか無視した幼児の絵を見て感激する人がいる。

 

つまり技術的な上手さは必ずしも感動につながらない。

上手い歌手だけど、心に残らないこともあれば、

下手でも印象に長く残る人がいるのと同じだ。

 

私は無駄のない絵を見たとき『上手いなぁ~』と思う。

余計なものが一切ない。とてもシンプル。それで伝わる。

線画で言えば、少ない線で物の形を捉えている絵だ。

ピカソのラフスケッチなんか、ほとんど一筆描きだもん。

迷いなく必要な線だけで描いてる。上手いなぁ~と思う。

 

細部まで細かく描かれた絵は一見上手そうに見えるが、

必ずしも上手さとは関係ない。

上手な描き手は必要なものがわかってるから、

余計な線を描かない。数本で表現できる。

省略が的確なのだ。

 

短い線を引いては消し、消しては引きを繰り返し、

それでもなんかバランスが悪いのは、多分下手なんだろうなと。

的確に形を捉えることができないから、無駄な線が多くなるのだろう。

ほぼ一筆描きでなんでも描ける人は上手いんじゃないかな。

 

これも余談だけど、ダンスもそうですね。

映画『パルプフィクション』の有名なダンスシーン。

https://www.youtube.com/watch?v=WSLMN6g_Od4

 

トラボルタとユマ・サーマンのツイストダンスを見るとそう思う。

サーマン女史のダンスはちょっと大げさに感じるが、

トラボルタ氏のそれは無駄な動作が全くない。

あまり体を動かさないのにカッコイイ。

どうしても視線はトラボルタ氏の方へ惹きつけられる。

サーマン女史は必死に踊る割にあまり魅力がなく、

トラボルタ氏はやる気があるんだかないんだかわからないような動きで

見るものを惹きつける。

最小限の動きで踊れるのは、やはり上手いのだろうなと。

 

じゃあ、トラボルタ氏のように踊れないダンサーは魅力なし!

と言えるかというとそうではない。

この世界には破綻した魅力というものが存在する。

健康優良児より、クラスの後ろの方で青白い顔して「ゴホン!」

なんて咳する奴のほうが不健康だがいいキャラだったりする。

 

つまり、プロだから上手いのは当然と思うか、

下手でも人を惹きつける魅力があればいいと思うかということになる。

 

さて、吾峠呼世晴氏の絵はそのどちらだろうか?

まぁ、好き好きということにならないか。

私は正直どうでもいい。

 (おのれは吾峠氏を守るんじゃないんかい!)

吾峠呼世晴氏の絵は、抜群に上手くはないが人を魅了する力がある。

上手い下手だけが評価基準ではないということ。

何かができないことは、必ずしも価値がないことではない。

吾峠呼世晴氏の絵は、まぁ下手なんだけどね、

それで価値がなくなるわけではないのだよと。

やはりそんなところだろうか♪

(波風立てずに、無難に着地したなぁ…)

 

最後に、前回書き忘れたことを書いておきたい。

単行本の3巻をパラパラとめくってみても、

見応えのある絵がない。

もっとも目立つのが太い輪郭線で描かれた効果音の文字だ。

正直これが見苦しい。

 

静止画はそれなりに観賞できるのだが、

アクションになると太線の効果音がやたらに出てくる。

 

ガッ ダンッ ポン バキ ドタァ ダダダダ パガ

 

マンガだからそれでいいのだけど、なんか見苦しい。

一体どんなことが起こってるのかよくわからない。

私は昭和のマンガで育ったアナログ世代なので尚更かもしれないが、

非常に見づらいのである。

若い人にはこれで十分なのだろうが、

私には何が ガッ で、何が パガ なのかよくわからない。

 

これは絵の上手い下手ではなく、見せ方の問題と思われる。

何をどうしてこうなったという活劇の流れの見せ方が下手なのだ。

強いていうならそういう下手なところはあると思う。

それでも多くの人にアピールする力を持っているところに

鬼滅の刃』というマンガの魅力があるのだろう。

 

大事なのは技術的な上手さではなく、人を惹きつける力なのだ。

魅力というのは技術が向上すれば付いてくるものではない。

やはり天性のものが大きく影響していると思う。

 

吾峠氏の絵がたとえ下手(上手く描けない)としても、
(出来る出来ないで言えば、『出来ない』範疇にあっても)
『価値がない』ことにはならないということ。

むしろこれだけ多くの読者を獲得できた点に注目すべきかもしれない。

惹きつけられる読者の『質』にもよるけどね♪

 

 

ただ吾峠氏は次回作が大変だと思う。

最初にこれだけのヒット作を描いてしまうと、

このハードルを越えるのはシンドイだろうなと。

商売人のお金儲けなら大成功だが、

新作を描かなきゃマンガ家とは言えない。

 

振り返れば、この人『鬼滅の刃』だけね、というのはちと寂しい。

だからこの騒ぎが早く落ち着いて、静かな日常を取り戻したら、

じっくりと時間をかけて新作を描いて欲しい。

マンガが生きがいなら、

大金を得るよりその方が幸せだと思うから。

 

そしてファンの方々とジャンプ編集部にお願いしたい。

たとえ吾峠呼世晴氏の新作がコケたとしても、

そう簡単に切り捨てないでほしいと。

吾峠終わった。なし。

 

ネットでこういう無神経を平気で書く輩がいる。

これは同じ悪口でもユーモアがない。

本当のファンは、ごひいきのマンガ家が落ち目のときにこそ、

大きな声でエールを送るものだと思う。

 

本当の才能は、長い時間をかけて育つのだ

 

私見だが、

吾峠氏の画家としての才には期待できないとしても、

ストーリーテラーとしての才能は本物で、

次回作が大きくコケることはないと思う。

出版社がこのマンガ家をこれからどう育てていくのか、

そこにかかっているのだろう。



まぁ、ジャンプはどうでもいいけどね♪

とにかくここまで来たんだから頑張れ、吾峠呼世晴

 

 

 

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